鳥貴士とは何者か?
こんにちは!鳥貴士です!
この記事を読めば鳥貴士とはいかなる人物か大体わかります。
ただもともと、自己理解・自分が振り返る用途で書いているのでダラダラとした部分が多いです。
分量は5万文字ほどあります。
それでも割と面白いと評判です。読んでくれた方、貴重な時間を使ってくれてありがとう!
このような形で過去の自分とじっくり向き合うのは精神衛生上とても良いのでオススメです。
みんなの自己紹介も読んでみたいなあ。
ということでざっくり自己紹介。
せっかくの人生、やりたいことは全部やるをモットーに
- 私立文系学部1年生ながら、留学準備と並行して1年近く、Webエンジニアの長期インターンに参加
- 編入試験と並行して、台湾の東大と呼ばれる国立台湾大学に1年交換留学
- TOEICで865点、TOEFL iBTで90点を獲得
- 編入浪人&理転して名古屋大学情報学部自然情報学科の編入学試験を突破
- 未経験だった法人営業のインターンで3カ月で50万円を稼ぐ
- 外見を改善し、クラブやマッチングアプリで女性経験を積み女遊びに耽る
- 「理想の彼女」と付き合う
など、興味の赴くままに大学生活を送り、やりたいことを紆余曲折ありつつも楽しみながら達成しています。
こうして並べてみると、手前味噌ながらめっちゃ充実した大学生活送ってるじゃん!と思います。
しかしよく見ると、あることに気づきます。
これらはすべて大学入学以降の話で、失敗や苦悩、後悔はすべて切り捨てられているのです。
元々自分自身は、いわゆるイケイケ陽キャではなく、天才でもなければモテるわけでもない、何者でもない存在だと思っていました。
何かを成し遂げなければ。「卓越した何者か」にならなければ自分の存在価値はない
大学入学前は本気でそう思っていました。
そのために、自分の理想は常に高い位置にありました。
しかし現実は理想とは程遠いものでした。
- 文化系の部活にいるアニメ・エロゲ好きでパソコンに詳しいキモオタ陰キャ
- 性欲と好奇心が悪魔合体し、性欲丸出しで高校の女の子に告白しまくってスクールカースト底辺へ
- オンラインゲームに沼って現実逃避をし自己嫌悪のループになる
- 大学入試は全く頑張ることができず、学歴コンプレックス
- 大学デビューにも失敗し、魅力的に思ってもらえずデートにすら辿り着けない
そんな自分が自己肯定感を取り戻し、コンプレックスを解消して人生を楽しめるようになるまで何をしてきたのか。
そして最初のようなことを成し遂げる上で、カギになった要因をお話しします。
ちなみにドン引きレベルの内容が多々あります。
飲み会で酒を飲みながら話すようなノリで書いてます。
下ネタ耐性が無い方はここで引き返してください。
書きましたからね???
幼少期
1999年9月21日、東京都のこじんまりとした古い病院でへその緒が切られました。
物心ついたころの記憶はあまりなく、はっきりとした記憶があるのは幼稚園時代からです。
幼稚園の頃は比較的泣き虫だったと記憶しています。
まわりの子たちは転んだり、怒られたりしても泣かなかったのに、自分だけ涙を流していることは多々ありました。
嫌いなやつに石を投げて怒られたり、ドッジボールで片手投げのヤツをうらやんだり、そんな幼稚園生活を送っていました。
幼稚園生低学年の頃は、トミカ!トミカ!プラレール!を体現しつつ、ブラウン管テレビでデカレンジャーを観ては寝てを繰り返していました。
親は高齢出産で自分を産んだため、決して裕福とは言えないものの、子育てをする上では十分な収入があったのだと思います。
母親は放任主義というよりは教育熱心で、幼少期の自分に多くの習い事や通信教材をさせていました。
この頃から自分は水泳、体操、タップダンス、園内サッカー部といったような習い事をさせられていました。
忙しくてしんどかったので「辞めたい」とも言いました。
しかし親は「続けたらいいことあるよ」と取り合ってくれないので、とりあえず脳死で従っていました。
他の野郎たちとの仲は悪くなく、一緒にドッジボールをやったり鬼ごっこをしたりしていました。
幼稚園上級生になると、ムシキングや恐竜キングが流行り始めました。
この頃からゲーマー体質が発現していきます。
習い事の帰りにイオンに寄って、ムシキングで遊ぶために100円をせびっていました。
そんな折に、祖母から誕生日プレゼントで、ゲームボーイとムシキングのゲームを買ってもらいました。
この頃からゲームにのめり込んでいきました。
Eちゃん
幼稚園の前半でしょうか、同じ組のEちゃんという女の子と仲良くなりました。
Eちゃんは育ちの良いお嬢様のような子で、身長は自分と同じくらいでした。
泣き虫で運動神経も頭も決して良くはないどうしようもない自分を「優しいから好き」と言ってくれた女の子でした。
Eちゃんも水泳と体操を同じスクールで習っていましたが、水泳は不向きだったのかやめてしまいました。
幼稚園と体操スクールが一緒で、親同士も仲が良かったので、一緒に遊ぶ機会が増えていきました。
お互い好きだったこともあって、どういう経緯かは覚えていませんが、結婚を約束して付き合うことになりました。
親がお喋りをしている間、一緒にデートと称して手をつないで散歩したりしていました。
ただ、キスで子供ができると思っていたので、一度キスを迫られた時は「子供ができたら育てられないよ」と断っていました。
あの時キスしておけばよかったなあと軽く後悔しています。
小学校低学年
自分とEちゃんは住んでいるところが少し離れていたため、小学校はお互い別のところに行くことになりました。
幼稚園で一緒だった野郎は数名いて、ムシキングやらDSやらベーゴマやら、色々な流行の変遷がありました。
低学年の頃はEちゃんの親と自分の親も頻繁に会っており、それに乗じてEちゃんと会う機会もそれなりにありました。
ただこの頃、Eちゃんの習っていたピアノが忙しくなってきたことと、自分が上級クラスに行ったこともあってEちゃんは体操をやめました。
Eちゃんのピアノのコンサートは定期的にあったので、親と共に見に行っていました。
しかしこの頃はピアノの良さなど全くわからなかったので、早くゲームやりたいなあなどと思っていました。
今なら良さはわかります。
ゲーマー化
小学校時代の楽しみはDSとWiiでした。
ただ、この頃から何かを始めると延々とのめり込み、やめることができなくなるタイプでした。
あんまりゲームを延々とやるので、父親からDSを床に叩きつけられ「勉強しろ」と怒鳴られたことはよく覚えています。
ただ結局DS自体は上半分がイカれたのですが、半分壊れたまま遊んでいました。
見かねた祖母からDS Liteを買ってもらい、ポケダンをやったり友達を呼んでスマブラをやったりしていました。
小学校3年生の頃、ある友人がプロアクションリプレイというゲームの改造ツールを見せてくれました。
友達の家に遊びに行って
「このボタンを押すだけで経験値とか攻撃力とかMAXになるよ」
と言われ、実際に使ってみたところ今まで手こずっていた強敵を瞬殺できてびっくりしました。
この時ばかりは親に懇願して、これと似たようなコードリンクスという改造ツールを買ってもらいました。
俺の原点 pic.twitter.com/7CTcFNRZVy
— 鳥 貴士@名大編入 (@tori_toutosh1) March 7, 2021
— 鳥 貴士@名大編入 (@tori_toutosh1) March 7, 2021
こんな感じでゲームを改造し、自分が非常に有利になる状態を作り出すツールです。
なんでこの16進数で小遣い最大にできたり壁抜けできたりするのか不思議でしょうがなかったなあ pic.twitter.com/oLDg8rajYW
— 鳥 貴士@名大編入 (@tori_toutosh1) March 7, 2021
中身はこのような16進数コードで、最初はコード集の本を買っていました。
「どうして0からFまでの英数字が、こんなチートの効果をもたらしているんだろう?」
そう疑問に思った自分は、親のパソコンを使ってコードを調べるようになりました。
この頃から2ちゃんねるや裏技掲示板に入り浸るようになっていました。
小学校高学年
ゲームの改造
小学校高学年になると、DSの改造からWiiの改造に興味が移りました。
letter bombのファイルをSDカードに入れてスロットに差し込み、Wiiの伝言掲示板を開きます。
するとCIOS(Custom IOS)をインストールするためのBootMii installerのリンクが作成されているというものです。
当時はこのように、延々とWiiをの改造について調べて夜更かししていました。
寝る時間が12時を過ぎる日はざらにありました。
Ocarinaチートをはじめ、エミュレータやUSB LoaderやDVD再生、RevolutionでマリオカートのCTGPを起動したり、スマブラやマリオのステージ差し替えたりして遊んでいました。
昔のレコーダーは3端子ケーブルの入力があったので、Wiiの映像音声出力端子をレコーダーに差し込むことでビデオボード要らずでゲームの録画をしていました。
ここでYoutubeに自分で動画を上げられることを知り、マリオのステージ改造動画をYoutubeに上げたところ、300万回くらい再生されました。
収益化ワンチャンあるなと思って申請したら著作権侵害で動画ごと消されましたが。
性への目覚め的な
最初にいわゆるエロい気分になったのは、小4か小5の時に親が見ていたIRISという韓国ドラマでした。
自分がWiiの改造について調べていて、親が韓国ドラマを見ているのは割と日常でした。
ただこの時は、自分もWiiの改造記事をよそに、IRISを見ていました。
いや、釘付けでした。
目が釘付けになったのは、セックスに入る直前のえらく官能的なキスシーンでした。
描写的にはその後にセックスをしたのでしょうが、その描写はカットされていました。
以降数日のうちに、日能研の悪ガキ連中からま〇こや白牌などの下ネタを教えてもらい、Googleで「ま〇こ 無〇正」とかで調べていた記憶がはっきりあります。
Wiiの改造記事はブログ形式のものが多かったため、2chのアダルト系まとめや通常のまとめ記事を、親の目がないときに読んでいました。
親が出かけているときは無限にまとめサイトをみていました。
小4小5の頃からまとめキッズでしたね。
コンピューターウイルスとプログラミング
小学校6年のある日の放課後、どういう経緯かは覚えていないのですが、円周率をPCで計算できることを知りました。
そこで友人とパソコン教室に忍び込み「円周率計算ソフト」と調べて出たソフトをインストールしました。
するとセキュリティソフトが反応し、物々しいアラートが出現しました。
そして1分もしないうちに担任が飛んできて、4時間くらい説教されました。
この時に「トロイの木馬」という「コンピューターウイルス」の存在を知りました。
そしてこのウイルスは「プログラミング」によって作られていることを知りました。
家に帰ってからいつも使っているパソコンでコンピューターウイルスとは何か、どのように作られているのかを調べました。
そして数日調べていくうちに、自分でコンピューターウイルスを作りたいと思うようになっていきました。
HSPという言語から入り、JavaやC++ができたらとても便利という話だけ聞いていました。
ただ当時は難しそうだったので、無限にウィンドウが出てくるバッチファイルをつくったり、消しても延々と復活するウィンドウが出てくるようなスクリプトを書いていました。
スクリプトキディという単語もこの時期に知りました。
この時期、あんまりPCにのめり込むので、親がPCを買ってあげようと思ったらしく、こっそりPCを新調してきました。
しかし、この怒られが発生したため、新調したPCが自分のものになることはありませんでした。
このタイミングで自分にPCを渡していたら、きっと根っからのエンジニアになって未来が変わっていたかもしれません。
これに関しては今でも親の判断ミスだと思っています。
Rちゃん
幼稚園の頃に結婚を約束したEちゃんとは、中学受験の塾に行き初めて疎遠になっていました。
そんな折に、同じクラスに特段顔がかわいい訳ではないのですが、眼鏡が似合っていて笑顔の素敵なRちゃんという女の子と仲良くなりました。
この子が初恋の相手ですね。
いま思い出して小3の頃に取った全体写真を見てみたら、カップルみたいな映り方をしていました。
ただ、当時はクラス連中から冷やかされるのが嫌で、好きという感情を隠していました。
小4の頃は途中まで一緒に帰ったり、席替えの時にとなりになってテンションが上がったりしていました。
この頃はニキビに悩んでいなかったのと、丸顔だったので、Rちゃんが「ほっぺが柔らかい」といってつついたりひっぱったりしてきて、勝手に心拍数が上がっていました。
小5に上がってすぐの時、仲の良かった友達にRちゃんのことが好きなんだよな、という話をしました。
「あいつRのこと好きらしいよ」
クラス内でうわさになり、お互い居づらい雰囲気になって会話も少しずつ減っていきました。
席替えに一喜一憂し、Rちゃんと座席が近くなって給食の同じ班だった時には、ネットで調べた豆知識を披露したりしていました。
この頃のRちゃんはいわゆるサブカル系女子で、初音ミクや鏡音リン・レンをよく聞き、ヘタリアをよく読んでいました。
しかし自分は、この時期はまだオタク文化に不寛容(Wiiの改造とかやってるクソオタなのですが)でした。
きっとRちゃんはボカロの話とかをしたかったのでしょうが、自分本位の豆知識の話題ばかり話していました。
この時におそらくボカロ等のサブカルチャーを否定したことがありました。
今振り返ってみると最低ですね。
本当に申し訳なかったことに加えて、俺自身この2年か3年後にはボカロ聞きまくってるアニオタに変わっています。
ただこうしたことがあっても、小5の夏休み前は、お互いこっそり手を振り合ったり、目線を合わせたりしていました。
しかし夏休みを挟んで新学期が始まるとき、Rちゃんに久々に会えることを楽しみにしていたのですが、何か違和感を感じました。
自分が少し距離を置かれているように感じていました。
それでも、Rちゃんは放課後にクラスに残ってラノベを読んでいるような子だったので、友人と帰宅する際に敢えて傘を忘れて教室に取りに帰り、一緒に帰ろうと誘ったりしていました。
ただこの頃の自分は日能研に入った後の勉強のストレスや、夜更かししてWiiの改造をやっていたこと、加えてほぼ毎日のオナニーでニキビがぽつぽつと出来ていました。
柔らくすべすべのほっぺはとうの昔の話、ニキビができては潰すことを繰り返し、さらに悪化するという悪循環に陥っていました。
夜更かしによって皮脂も増え、とうとうほっぺを触られることはなくなりました。
小5, 6のころはずっとRちゃんと付き合いたい、やりたいと思いながら過ごしていましたが、下心を包摂した好意の発露によって避けられていた面は大いにあったと思います。
小6の2月に中学受験が終わり、親からねぎらいとしてiPod Touchを買ってもらいました。
iPod Touch 第4世代は裏が鏡面加工で綺麗でしたね。
自分はiPhoneとかスマホを親にねだったのですが聞き入れられず、その妥協案としてのiPod Touchでした。
それでもスマホ感覚でブラウザやYouTubeを使えたり、カメラが使えたりするのは当時の自分にはとても新鮮でした。
ただ当時の自分が最も重視していたのはメールアドレスでした。
Rちゃんは携帯電話を持っていたので、これでRちゃんとメールができる!と意気揚々としていました。
しかしRちゃんにメールアドレスを聞いても教えてもらえず「また今度」とはぐらかされました。
「じゃあここにメールして」とメアドを渡しましたが、メールが来ることもありませんでした。
この頃のRちゃんは他に仲の良い男友達がいて、彼らとはメールをしていたようでした。
その仲の良い男友達とは自分とも仲は悪くなかったのですが、多少の嫉妬心を抱えながら接していました。
最後の思い出は卒業式で一緒に写真を撮ったことくらいです。
当時は一緒に写真を撮ろうと誘うことにも、ひどく緊張していたものです。
卒業式で告白も考えていましたが、チキンすぎてそれどころではありませんでした。
また別の中学校に行くのでもう会うこともないだろうなと感じていました。
結局Rちゃんとは卒業まで何もなく、Rちゃんも共通の知り合いのいる中学校には行かなかったので、その後の消息は知りません。
成人式にも参加していなかったと思います。
思い返せば自分の眼鏡好きは、この子の影響を強く受けていますね。
元気でやっているといいな。
中学受験
小学4年に親から慶應中等部や開成の文化祭に連れていかれました。
そして中学受験をするように説得されました。
めんどくさそうだったので回答をしばらく保留していました。
回答を保留して1カ月くらい経った頃、自分の小学校が統合され、名前が変わり、中高一貫校になることが決まりました。
その名前が投票で決まったのですが、あまりにダサい名前だと感じ、この中学は嫌だなあと感じました。
そして親には中学受験をする、慶応に行きたいと伝えました。
実際には名前がダサい中学に行きたくなかったからですが。
結局塾に入っても特段勉強せず、課題もあまり出していませんでした。
深夜までゲームをしていたので体力が尽き、いつも授業では寝ていました。
悪友と授業が終わった後にチャリで爆走したり、下ネタで盛り上がったりしていました。
この頃の得意科目は国語と社会、苦手科目は算数と理科で入試が終わるまでも変わりませんでした。
最終的には第1志望群だった慶應や芝は落ち偏差値50台の、都内にある私立の自称進学校に入学しました。
入試では、上級クラスと推薦クラスのような分け方をされていました。
自分は上級クラスを受けたのですが、推薦クラスにスライド合格という形での入学になりました。
中学校名はダサくなかったので満足でした。
中学生時代
入学してすぐのテストで学年トップクラスの成績をたたき出し、推薦クラスから上級クラスにまたスライドしました。
最初こそ入学してからがんばるぞ、という意気込みがありました。
しかし夏休みで完全に生活習慣も勉強習慣も崩れ、延々とコンピューターウイルスやセキュリティ系のニュースをウォッチしていました。
Eちゃんとの別れ
幼稚園の頃からの付き合いだったEちゃんとは、小学校高学年あたりからお互い中学受験で疎遠になり、しばらく会っていませんでした。
その頃はもはや付き合っているか怪しいレベルでした。
そこから受験を終えて約1年後のバレンタインデーに久しぶりに会いました。
久しぶりに会う彼女は、軽やかな白のワンピースと垢ぬけた雰囲気を身にまとっていました。
会わなかった2年間で彼女と自身との差に大きな溝ができ、互いの住む世界が変わってしまったと思いました。
それ以降は手紙も交換せず、メールもLINEも交換せず、未だに一度もコンタクトを取っていません。
加えて当時は価値観の壊れたゲーマーだったので、Eちゃんと会う時も、その直前にやっていたスーパーマリオギャラクシー2の続きをやりたいなあなどと思っていました。
とても失礼な話で申し訳なくなりますね。
せめてLINEくらい交換しておいて、もう一度好きになる機会を作りたかったです。
ネトゲ廃人化
中学に入学してもゲームの改造への興味は変わりませんでした。
ただ今度は、マリオカートのステージを自作したいと思うようになりました。
親が新調したパソコンは結局自分ばかり使っていましたが、自分用ではなかったので親優先でした。
そこで、お母さん銀行にお年玉がそこそこあったので、自分用のPCを買わせろと文句を言いにいきました。
すると「漢検2級にうかったらいいよ」と言うので、頑張って合格しました。
PCを買ってすぐに、AVAという3Dで動くFPSゲームにのめり込みました。
当時は2次元的なモニターに描画される3次元空間に感動したものですが、こいつが人生を狂わせる元凶になります。
AVAでもチートをやろうとしてMPGHを眺め、導入しようとしてBANされネットワークカードを交換したりしていました。
とうとうIPとマザボがBANされた中学2年の頃、自作PCの存在を知りました。
中2のお正月には祖母がボケてお年玉を2回くれた上、引っ越しもあったのでミドルスペックのPCを組みました。
この頃からネトゲ中毒に拍車がかかっていきました。
Wiiの改造やC++、Javaプログラミングもちょこちょこやっていましたが、難しくて挫折しました。
中学生活
中学生になるとSixなどのしょうもない下ネタで盛り上がるものですが、自分もその例に漏れず爆笑していました。
席順に一喜一憂し、かわいい子には目が移り、クソつまらない授業は寝ていました。
部活は爆弾を作りたいからという理由で理科部を選択しました。
結局爆弾を作るのは止められましたが。
理科部ではずっとパソコンをいじっていても誰も文句を言ってこない環境でした。
また部員同士の仲も比較的良好だったので過ごしやすかったです。
数学や英語などの努力を要する科目はずっと苦手で、補習はネトゲをやりたいのでサボっていました。
中2ではキャンプの副リーダーをやったり、中3の頃は学級委員長をやったり、スクールカーストで言えば割と上の方だったと思います。
割とオタクに寛容な環境だったので、アニメやゲーム好きな陰キャでものびのびやっていける環境ではありました。
Tちゃん
幼稚園の頃からの付き合いだったEちゃんと連絡を取らなくなってから、1年ほどは誰と誰が付き合ったとか告白したとか。
このあたりのゴシップで気が気でなくなっていました。
そんな男女の噂話に毎日思考のリソースの大半を割いていた中2最後の席替えの日。
自分の横に座ったのはTちゃんという子の横でした。
最初はお互いなんとも思っていない、普通の仲の良い友達でした。
中学3年になり、自分は上級クラス。Tちゃんはその上の選抜クラスに振り分けられ、クラスが別になりました。
クラスが別れてから、さらにTちゃんのことが気になり、授業中もたまに視線を送ったりしていました。
ずっとTちゃんのことは気になってはいたのですが、度胸と口実がなかったので告白はできずじまいでした。
そこで中3の修学旅行の時に一計を案じて、罰ゲームのアイデアをみんなで考えつつ、その中に好きな相手に告白するという案をねじ込みました。
計画通りに自分があえて負け、好きな相手に告白する罰ゲームを引き、修学旅行の最終日1日前に告白しました。
この時は回答を保留されましたが、修学旅行が終わってOKをもらったときにはとても嬉しかったことを覚えています。
しかし1週間で振られました。
昔から冷やかされるのが嫌だったので、こっそりとメッセージを送ったり、時間差で隠れて一緒に帰ったりしていました。
そしておそらく決定打になったのが、初デートで大江戸温泉に誘ったことです。
大江戸温泉に行ったことがある人ならわかると思うのですが、中では浴衣に着替えることになります。
その浴衣を着ながら足湯に浸かることができますが、この浴衣が結構はだけやすいわけです。
まぁ浴衣がはだけることを期待しますよね。
そんな感じで、この時期はセックスとエロしか頭になかったので、下心満載で提案していました。
他にも以前からの気質で、噂になって色々言われるのが嫌だったので、付き合っているのがほぼ学年中にバレているのにも関わらず、こっそり紙でメッセージを渡したりしていました。
いま振り返ってみればガチでキモいですね。
結局Tちゃんも嫌気がさしたのでしょう、人目のない屋上ドア前で「元の関係に戻りましょう」と振られました。
あの時は本当に申し訳ないことをしたなと思います。
当時もそう思ってはいました。
しかし、結局それらしか頭になかった上、告白の打診に変に慣れてしまい、ここから色々歪んでいきます。
高校時代
童貞卒業
中3の頃にこっぴどい振られ方をして、(おそらく)悪評が学年中に轟いていました。
加えて現実逃避のためにFPSやアニメやエロゲを延々とやっていて、肌荒れも最悪レベルでした。
この時は逆張りガイジだったので、エロゲやアニメの良さを吹聴していました。
グリザイアシリーズは神ゲーで、自分の人生を変えたと言っても過言ではないのですが割愛。
スクールカーストの話題になったときに、「OOはカーストの外にいる感じだよね」と言われることが多かったのですが、とどのつまりは最底辺ということです。
そんなスクールカースト最底辺でも一応男なので、性欲は延々と湧き上がります。
加えて好奇心も人一倍強かったので、いわゆるヤリモク的傾向が強い状態でした。
当時はセックスを求めれば求めるほど離れていきました。
正直に生きることを是としてきたことと、欲を正直に出すと相手から受け入れられないという現実に直面していました。
そのため、この現実による認知的不協和から、童貞を卒業できないことを延々と悩み続けていました。
そんな状態で文化祭の準備をトイレでサボっていた折、激裏情報で仕入れた情報のおかげで9万円ほどが振り込まれました。
そこでハッピーメールやワクワクメールといった老舗の出会い系に登録し、累計5万円ほどを課金しました。
当時はマッチングアプリという呼称もTinderも普及しておらず、行きつく先がここだったわけです。
これらの出会い系はインターネット異性紹介事業に該当するので、利用のために免許証の写真などを送らないといけませんでした。
そのため、ネットから運転免許証の画像をダウンロードし、適当に生年月日を加工して登録しました。
ただこうした老舗の出会い系によくある話なのですが、非常に業者が多かったです。
業者というのは援デリという、風俗にも通らないような女を管理売春しているような半グレグループを指しています。
まぁ5万円もぶち込めばさすがに学習するので、そうした業者は見分けられるようになりました。
そんな中で一人だけ、自分の業者センサーに引っかからなかった女性がいました。
職業もわからず、27歳という年齢だけわかっていました。
ハッピーメールでメッセージを交わしていたのですが、業者特有の雰囲気がなくLINEの交換まで行きつきました。
成人とだましているのも申し訳なかったので高校生だと伝えましたが、特に気にしていないようでした。
そこから数日後に上野駅で会う約束を取り付け、高揚した気分でその日を迎えました。
期待に胸を膨らませ、山手線に揺られた後、上野駅で降車。
待ち合わせ場所は特段決めていなかったので不安でしたが、家を出たという連絡はあったので少し待っていると一本の電話が入りました。
その女性も上野駅に到着したとのことで、待ち合わせ場所を上野の松坂屋の1階駅側ドア前に決めました。
自分の方が先についていたようで、周りにそれっぽい人はいませんでした。
5分ほど待っていると、やや太っている30代半ばほどのマスクをつけた女性がやってきました。
いやーまさかの?と心の中でつぶやいていると、その女性がおもむろにスマホを取り出し電話をかけ始めました。
そこで自分のスマホがなったので、あっ(察し)と一瞬の逡巡の後「OOさんですか?」と声をかけました。
あまりうれしくないビンゴですぐに帰りたくなったのですが、童貞を卒業するまたとない機会だと思いなおし、手をつないで散歩を始めました。
「どこに行くんでしたっけ?」
と自分が聞くと、どうやらネカフェに行くようでした。
そのネカフェを使い慣れているのかな~と思いつつ、とりあえずついていくことにしました。
傍から見たら、年齢と雰囲気の差から親子に見えていたかと思います。
しばらく歩き、カスタマカフェ上野店に入店しました。
自分は当時16歳だったので、ネカフェに入れるのかどうか不安でしたが特に問題なく入ることができました。
当時は相手も環境も未知だったので、財布には最小限のお金のみ入れて、シャワーを浴びに行くときも貴重品は肌身離さず持っていました。
自分が先にシャワーを浴びた後、相手の女性もシャワーを浴びに行きました。
その時の甘ったるい香水の残り香は今でも覚えています。
女性が戻ってきた後は、お察しの通りの展開なので割愛します。
この時に女体についていろいろと教えてもらったので、今でも感謝しています。
童貞は早く捨てるべきであるという考えと、知的好奇心が満たされたので満足でした。
次はリアルの関係性の女の子を抱きたいと思いながら、2度と会うことはないだろうなとLINEを削除しました。
当時一番仲の良かった友人に、出会い系に数万円課金して35くらいのおばさんで童貞を卒業したけど、本当はリアルの友達や彼女で卒業したかったと話したら苦笑いされました。
業者
しばらく出会い系を使っていたので、出会い系での素人センサーには割と自信がついてきていました。
先ほど9万円が振り込まれて5万円を使ったと書きましたが、この時
「残り4万円あるなら出会い系の美人な業者にでも会うのはアリかもしれない」
と思い、その時に援デリに特有の条件提示のメールが来ていたので、適当に返信をして渋谷のサンマルクカフェで会うことになりました。
当時はデビットカードを持っていたので現金は持たず、身分証などはすべて家に置いて渋谷に出かけました。
23歳で写真だけは割と美人だったので、多少の写真詐欺はあるだろうと思いながらも、よほどひどいわけではなかろうと楽観視していました。
土曜日か日曜日の15時に集合となっていたので14時30分ごろに付き、どんな美人が来るのだろうとワクワクしていました。
今回はワクワクメールを使っていましたので。
この時はLINEを交換していなかったため、15時になったらワクワクメール上でメッセージが来ました。
どうやらサンマルクカフェの中でコーヒーを飲んでいて、こちらに来てほしいとのことでした。
そこで意気揚々とメッセージに書かれていた座席に向かいました。
そこに座っていたのは、30代くらいのまぁまぁガタイのいい色黒ギャルメイク崩れおばさんでした。
は?となりつつも平静を装い、今日はよろしくお願いしますなどとほざいてサンマルクカフェを後にしました。
心の中では
「これに金払って+ホテル代払うわけだろ?ガチ渋いなあ」
「これどうやって回避しようかなあ」
と”負の性欲”でいっぱいになっていました。
向こうは久々の客なのか、意気揚々とラブホ街に向かっていました。
当時はラブホに入ったことがなく相場もわからなかったので、2000円くらいなら耐えるか…?と思い中に入りました。
どの部屋にしようかーとほざく女を片目に、5000, 8000円など、各部屋の値段を見て硬直してしまいました。
心の中で「いや、高い…この援デリ女にこんな金出したくねえ…」
と思い
「ここ高いので別のところにしましょう。」
と逃走までの策を考えるための時間稼ぎをしていました。
このやりとりを4回くらい繰り返していたところ
女が「いい加減決めなよ~」
と汚い声で言ってきたので、自分もいい加減決意を固め
「ごめんなさい、無理です」
と正直に言いました。
正直を是としているので。
すると女もイラっときたのか「ならわざわざ来てあげたんだから1万円くらいは頂戴」
と言ってきました。
しかし自分はビタ一文払う気がないうえ、お金はデビットカードでしか使えないので
「ごめんなさい、すみません」と3回連呼して、円山町から渋谷駅に向かって駆け出しました。
気分はゾンビから逃げる脱出ゲームの主人公でした。
相手は一応キレている大人だったので、16の自分には気が気でなかったです。
小心者なので。
スクランブル交差点まで走り続けて後ろを振り返ったところ、それらしき人物はいませんでした。
振り切ったことに安堵しつつも、どこかから見られていたら嫌なので、電車に乗るまでは走り続けました。
同じ電車に乗っていることを危惧して、いったん東京駅まで向かい八重洲ブックセンターで18時まで立ち読みをしてから家に帰りました。
とても悲しかったです。
告白ローラー
中3の頃にTちゃんに告白してこっぴどく振られ、スクールカースト底辺にまで落ちました。
しかし一度告白を成功させたという自信が生まれたことと、告白なんてただ伝えるだけじゃん、OKもらえたらラッキーという風に考えていました。
告白へのメンタルブロックが変に外れていったわけですね。
まぁナンパが確率×試行回数のゲームなのは真です。
ただこれを閉鎖的なコミュニティ内でやるのは悪手でした。
「確率」は外見的魅力 × 内面的魅力 × 社会的魅力から構成されますが、このうちの社会的魅力が告白に失敗すればするほど顕著に下がっていくのです。
ただ当時の自分はその事実を過小評価していました。
そのため高校3年間を通して同じ学年で7人くらいに告白し、全員に振られました。
自分は認知が歪んでいたので、LINEを仲良くなるためのツールだと思い込んでいました。
敗因はそれで、LINEで延々とメッセージを交わしながらも、リアルだと周りの目を気にして話しかけることができませんでした。
それでもLINEの中では仲がそれなりに良いので、バレンタインチョコ(義理)をもらって勘違いをしたりしていました。
LINEの中での仲をリアルでの関係性だと勘違いし、デートに誘っては断られ、告白をしては断られという感じでした。
当時はPDCAサイクルを回すという考えがなかったので、すべて同じようなパターンで負けを重ねていました。
そんなことを繰り返していたある日の高3の放課後。
放課後の少し遅い時間に帰宅するとき、自分の教室に傘を忘れてしまったので、一度教室に立ち寄ることにしました。
その時の教室には女の子6人がギャハギャハ笑いながら話していたのですが、その女の子たちの共通点は自分が過去に告白したことのある女の子でした。
教室に足を踏み入れた瞬間空気が凍るのを察しました。
差し詰め被害者の会といったところでしょう。
「そういうのは悲しくなるな」と場を微妙な空気にしてその場を去りました。
場を変な雰囲気にしたので満足して家に帰りました。
頑張れなかった大学入試
大学受験を意識し始めたのは高1の秋くらいでした。
色々と情報を集めていくうちに、5ちゃんねるの大学受験サロンという、学歴煽りと比較スレが8割のクソ板の住人になりました。
この時に理系でないといけない、国公立でないといけないなどの価値観を取り込み、第1志望が東大理1になりました。
進路も一般受験・理系クラスを志望し、希望通りとなりました。
高1からやっていれば受かるだろうという見込みの元、ネットで調べて良さそうだった武田塾に入塾。
ちなみにおすすめはしません。お察しください。
Wakatte TVは好きだけど。
とりあえず英語が最優先ということで、英単語ゴリラと化していました。
また高1の頃には生徒会の会計をしていたのですが、待ち仕事が多すぎて本を色々読むようになりました。
最終的には勉強から逃げて、ひたすら読書をしていました。
当時の得意科目は昔と変わらず国語、日本史、世界史でした。
高2の頃にはセンター同日試験で英語は8割取れていて、英語も得意科目になりました。
ただそれ以外の数学、理科科目はてんでダメでした。
ネトゲで睡眠不足だったため、理科科目では寝まくり。
授業についていけず、高3の夏で文転を決意しました。
志望校を一橋経済に変更したものの、文系科目は2次試験で戦えるレベルまでの演習ができていませんでした。
また数学も得意とは言い難い状態でした。
不合格の山と学歴コンプレックス
そんな状態で受験したので、受験結果は散々でした。
センター試験では得意の国語でボコボコにされ、数学はさっぱりわからず、英語は1年前と大差ありませんでした。
センター利用は全落ち、慶応SFCや明治、理科大は不合格、法政多摩には受かるも遠くて通えない。
国公立2次も、志望校を横浜市立大のデータサイエンス学部に下げるも、普通に落ちていました。
最終的に明治の補欠合格が繰り上げになり、なんとか通える範囲内の明治大学に入学しました。
ただ入学しても私立文系で、しかも繰り上げ合格。
本来なら受かっていなくてもおかしくない程度の実力という、理想と現実のギャップに絶望しました。
浪人ないしは仮面浪人することも検討しましたが、親からは「そんな金はないし明治で十分だろう」と言われました。
加えて、同じ高校の内容をやり直しても面白くないし、既にうんざりしているならどうせ勉強しないと思い浪人はやめました。
しかし自分は優秀でなければならない、私立文系では優秀とは言えない。
その上、私立文系でもトップではなくまだ上の大学がある。
そんな自分は上を見上げれば全然上位ではない、むしろ下位で劣った存在でしかないと考えていました。
自分は最低限国公立大、海外大などの彼らの上をいくような学歴を手に入れなければならない。
そういった強迫観念がありました。
編入学試験を知る
編入学試験そのものは大学入試を受ける前から知っていました。
この記事はUCLAの編入ですが、日本はやっていないのかと調べたところ、経済学部では
- 京都大学
- 大阪大学
- 神戸大学
以下いろいろ、という順で目につきました。
京都大学、大阪大学で編入学試験をやっていて、学部3年からなら浪人せずに行ける。
学歴を塗り替えてストレートで卒業するにはこれしかないと思いました。
大学入試が終わって結果が出そろったころ、学歴コンプに苛まれていた自分は編入試験の受験を決意しました。
ただ決意といっても、よくわからんけど編入できるならしたい、という程度の決意でした。
大学生活の計画
入学前に、自分はどんな大学生活を送りたいのかを考えました。
せっかく入学するなら実りのある大学生活にしようと固く決意していました。
その中でやりたかったことは
- 編入試験で旧帝大に合格
- 1年以上の長期留学
- プログラミングでお金を稼ぐ経験=起業
の3つでした。
編入試験に関しては、旧帝大に合格した場合、文系一般入試クラスのやつらの中で文転組ながら高校で一番になれると踏んでいました。
また理系クラスでも大半が浪人で、医学部は私立医、大学で言えば、東北大が一番良いところでした。
1年以上の長期留学は、高校時代の友人が1年間カナダに留学していて、大学入試の英語を一ひねりにしていたこと。
そして自分もそのチャンスがあったのに逃してしまった後悔がありました。
起業については優先度は高くはありませんでしたが、自分の手で生活できるぐらいのお金を稼ぎたいと考えていました。
そこから多くの下調べを重ね、1週間ほどかけて、大学で何をするかのおおまかな計画を練り上げていきました。
この大学生活でやりたいことを書き出して、結果的に計画をすることが人生を変える第一歩になりました。
今では人生を変える第一歩が計画を立てることだと考えるようになりました。
経験人数2人目
高校の頃は成績が低迷していて、成績低い連中と仲良く低いマインドのまま過ごしていました。
その中の一人に、高2で高校を辞めて後にホストになる悪ガキがいたのですが、その友達から「ひま部」というアプリを教えてもらいました。
ひま部は学生限定SNSで、主に中高生が使っているアプリだったのですが、その友達が「ひま部はやれる」と太鼓判を押していました。
それを聞いて早速インストールし、アカウントを作成しました。
現在はサービスが終了してしまったのですが、当時は割と人がいるサービスでした。
このような記事が出るくらい無法地帯でした。
最初は普通にいろいろな人と交流したりしていましたが、ある程度機能がわかってきたところで攻略法を考え付きました。
基本的にはアプリ内のDMに移行して、同じ都道府県の高校生のLINEを抜いて、電話をした後に会うという流れです。
ひま部でいろんな女の子に声をかけていたところ、一人の女の子と仲良くなりました。
名前をHちゃんとしましょう。
Hちゃんはあまり家庭環境がよろしくない高校1年生の女の子で、親からDVを受けていると言っていました。
ただそれにしては受け答えがまとも、写真の雰囲気も極めて普通で、違和感は特に感じていませんでした。
DMからLINEに移行し、顔写真を見せてもらうと割とかわいい子でした。
電話では、親が暴力をふるってくるので家にいたくない。
ひま部で彼氏を作ったけどすぐに別れた。
経験人数は明かしてこなかったが、処女ではない。
DVに反撃することはできるけど、Hちゃんは空手有段者で親を殺しそう。
とかなりヘビーな内容の話をしていました。
ただ極めて普通の受け答えをしていたので会う上では問題ないと考え、セックスをにおわせつつ一緒に遊ぶ約束をしました。
ある3月末、御徒町駅の高架下18時集合で待ち合わせをしました。
ここまでで一度、親が家から出してくれないから無理とドタキャンされていたのですが、今回は出られそうとのことでした。
17時に御徒町に到着し、ネカフェに高校生が入店できることと、ファミレスの位置を確認しました。
18時になると写真の通りのかわいい子が来ました。
「え、実物の方がかわいいじゃん」
「そんなことないですよ」
「とりあえずお腹も少し空いてくるころだし、近くにジョナサンあるからそこに行こうか」
と予め調べておいたジョナサンに入りました。
注文を終え、晩御飯を食べながら電話で話したことの焼きまわしのような会話をしていました。
エロ系の話題にさしかかったので
「あんまり長居するのもアレだし、とりあえず出ようか」
「トイレ大丈夫?」
と聞いてHちゃんをトイレに向かわせ、自分は2人分の会計を済ませました。
Hちゃんが帰ってきて、会計を支払おうとするのを拒み、そのまま手をつないでネカフェに誘導しました。
特に何も言わずについてきてくれました。
ネカフェの部屋は個室を選択。
鍵を受け取り部屋に向かうと、個室ではあるもののすりガラスで一部外から見え、またドアの上が通路とつながっていました。
しかしもう手遅れだったので特に気にせずに、Hちゃんの荷物を机に置き、コートをハンガーにかけ
「それじゃおいで」
とハグから始めました。
最初は普通にハグやキスをして、すこしずつ服を脱がし、自分も服を脱いでいきます。
そしてしばらくの間、お互い上裸になってハグをしていました。
そこで自分はある違和感を感じました。
自分の背中が、Hちゃんのハグしている腕のザラザラとした感触を感じ取っていました。
片方の腕については感じましたが、もう片方の腕は感じませんでした。
Hちゃんを押し倒す時になって腕を見ると、ようやく違和感の正体がわかりました。
腕に走った複数の赤い線分、すなわちイカ焼き(リストカットをした痕)でした。
気づいてしまったものの、この状況下でやめるという決断は論外でした。
前戯を続行し、Hちゃんに挿入する段になったとき、自分が
「ゴム財布から取らんと」と言ったら
「ゴムはいらないから早く入れて、ピル飲んでるから中に出して」と頼まれました。
当時の自分は、そういう子もいるんだなあ、と思いながら依頼の通りに事を終えました。
事後に「私1回した人とは2回目会わないんだよね」と言われ、少し悲しくなりました。
Hちゃんとどこかに泊まることも考えましたが、今度は自分の親が心配すると思い帰宅しました。
HちゃんとはしばらくLINEでやりとりを続けていましたが、宣言通り2度と会うことはなく、大学も始まってフェードアウトしていきました。
Hちゃん、幸せに生きてくれ。
大学1年
エンジニアの長期インターン参加
大学に入学し、4月はサークルの勧誘で雰囲気の良さそうだった体育会合気道部に入部しました。
しかし最初のゴールデンウィークに入る前、給料が出て、自分のプログラミングスキルを鍛えられる有給インターンの存在を立ち読みした本から知りました。
「Webエンジニアとしての経験値を積みながら、アルバイト同様に給料が出る」
「もし就活をするなら、大きな強みになる」
と思い、1カ月で合気道部を辞め、Kinecaという会社でハイブリッドアプリのフロントエンドとサーバーサイド両方の開発に携わっていました。
Kinecaではギャラ飲みマッチングサービスの「Pato」を開発しており、最初は簡単なタスクから複雑な機能の実装までを任せてもらいました。
初日に札束を渡されて
「自分用のMacbook Airを買ってきて」
と言われ、これがイケてるベンチャーなのかと驚きました。
最初は結論から話すことができなかったり、考えているつもりで思考停止していることを指摘されたりしました。
自分は他の同期に比べてプログラミングができると思っていたので、それよりも根本的な部分での指摘に耳が痛かったです。
ただ指摘されるたびに納得して改善の努力はしていて、論理的なコミュニケーションの取り方や仕事の進め方などで非常に勉強になりました。
また並行して、自走できるエンジニアになることを目標に、CTOと仕事の進捗の相談から進め方、自分で成長するための計画づくりを月1で相談していました。
この時の相談(1on1)から、自分で自分を成長させる方法を学ぶことができ、かけがえのない財産になりました。
改めて感謝です。
交換留学でKinecaをやめるときにはこのような寄せ書きをいただきました。
今でも初心を忘れそうになったとき、定期的に読み直しています。
初めてのナンパ
Kinecaはマッチングアプリの開発の他にもメディア事業やインフルエンサー事業を展開しており、会社の雰囲気的には割とイケイケベンチャーという感じでした。
社内では他の事業部との壁を薄くするために、全体ミーティングを週1で行ったり、割と頻繁に飲み会が行われたりしていました。
自分は社内最年少ということもあり(足は引っ張りがちでしたが)、色々な事業部の方からかわいがっていただきました。
その中のひとりにAさんという方がいました。
Aさんはメディア事業部でライターをしている高身長イケメンだったのですが、会社の風土や事業の特性もあってマッチングアプリやナンパについて造詣のある方でした。
ハロウィンの数日前の夜、渋谷で目標達成祝いの飲み会が終わった後、Aさんから
「鳥くん、渋ハロ行ってみようよ!」
とお誘いを受けました。
もう一人、インフルエンサー事業をされている方(Bさん)も、動画撮影がてら一緒に行くとのことだったので、自分もノリでついていくことにしました。
この時は動画撮影に協力してもらいに声をかけるのかなー程度に思っていました。
3人で渋谷のハチ公前に行き、動画撮影に協力してくれる人を探すために、仮装している女の子に声をかけまくりました。
といっても、自分はチキンだったので、Aさんが声をかけて俺がフォローに行って和むような感じでしたが。
一組撮影交渉が成立し、Bさんが取材している最中にも、Aさんは仮装している女の子に声をかけていました。
あ、声かけるんだ。と思いつつ、女2男1だったので自分もサポートに入って、トラックを横転させた不届き者をダシに色々話しました。
話を聞くと、この仮装女子2人組はまだ晩御飯を食べていないようでした。
Aさんが晩御飯で適当に鍋でも食べに行こうよ、と誘うといいね~食べたいと乗ってきました。
自分は「これがナンパで、意外と打診って通るものなんだなあ」と感動していました。
女の子2人組をCちゃんとDちゃんと呼ぶことにします。
二人とも高校を卒業してから働きはじめ、二人は職場の元同僚で「なんか盛り上がってるらしいし渋ハロ行こうぜ」的な感じだったようです。
年齢は当時の自分と同じ18歳でした。
Cちゃんは北国出身で肌の白い長髪美人で、しゃべり方はギャルっぽいが、イントネーションが甘ったるい子でした。
Dちゃんは名前が特徴的な下町出身の毒を吐きがちな子で、髪の毛が超短髪でそこまでかわいいとは言えない子でした。
AさんはCちゃんを気に入っていた様子だったので、自分はDちゃんと色々話しながら4人でお店に向かいました。
自分はDちゃんと一緒にいるのが少ししんどい気分で、加えて当時の自分はコンビ相手のために泥水をすするという考えがあまりなかったので、Cちゃんも少し狙いながら会話をしていました。
CちゃんやDちゃんとは家がまぁまぁ近く、地元トークで盛り上がったりしていました。
とはいえこの時はナンパの流れなどがわからなかったので、2人組で別々に行動するとか落としどころとかも不明でした。
とりあえず店に入り、酒を頼み、鍋を食い、終電を逃し、雑談を2時くらいまでしました。
出るころにはそれなりに和んでいて、AさんとCちゃんが手をつないでいたので、とりあえずDちゃんとも手をつないでおきました。
結局4人でカラオケに行き、始発まで歌って、ここでLINEを交換しました。
もし今だったら、Dちゃんと手をつないだタイミングでAさんCちゃんとは別れてネカフェかラブホに入っていたと思います。
CちゃんDちゃんはハロウィン当日にもまた渋谷に来ると言っていて、自分やAさんも仕事で渋谷にいるので、また飲みに行こうと約束しました。
CちゃんDちゃんは翌日も仕事らしく、タクシーで家に帰っていきました。
ハロウィン当日にも同じように鍋のお店で酒を飲み、カラオケに行って朝イチで解散しました。
ここまでの会計はすべてAさんが払っていたので、自分の知識不足でAさんの方も破綻してしまったと思って申し訳ない気分でした。
ただAさんは「楽しめたしこれでいいじゃん」と言っていて、自分はそれが本心なのか慰めなのかわからず困惑しました。
いずれにせよAさんには大感謝です。
今の自分があるのはAさんのおかげです。
後にAさんとCちゃんは個別で会って付き合い始めたものの、すぐに別れてしまったと2人から聞きました。
CちゃんにAさんについて恋愛相談を受けたり、4人でディズニーに行くのが渋くて断った話は、特におもしろくないので割愛します。
Aさんは当時の非モテ陰キャだった自分に、ナンパすることで道端で知り合った見ず知らずの女の子と仲良くなれることを教えてくれました。
今の自分があるのはAさんやCちゃんDちゃんのおかげでもあるので、感謝しています。
今でも時たま近況が流れてくるのですが、Aさんは起業家に、Cちゃんは店の売上ナンバー1キャバ嬢に、Dちゃんは母親になっていて、時の流れを感じました。
交換留学のための英語の準備
高校の同期が海外留学に行って、大学入試の英語で無双している場面を見ていたので長期の交換留学に行きたいと、常々思っていました。
しかし入学前までは自分の英語力に自信が持てず、あまり留学に行けるとは思っていませんでした。
そんな折、大学に入学してすぐに学部全体でTOEIC IPテストが行われました。
そこで695点を獲得。
東南アジア圏はTOEIC700点でも留学に行けることや、オランダのビジネススクールも765点あれば行けること。
そして他の同期や平均点と比べると、比較的高いスコアということがわかりました。
自分は学術よりはビジネスの方がやりたかったので、オランダへの交換留学を目指すことにしました。
すぐに大学1年の7月のTOEICに申込み、京大編入の受験も興味があったので、8月にTOEFL iBTを申し込みました。
長期インターン、大学の勉強にTOEICの勉強を追加するのはしんどく、リスニング問題集を0.3周くらいしてTOEICの日を迎えました。
またその直後にTOEFLを受験しました。
点数はTOEICが745点で、オランダの方には点が低すぎて行けないなと感じていました。
TOEFLも55点と散々で、高校卒業水準が60点なので「俺はまだ高校卒業の水準にすら達していないのか」と自己肯定感が一気に下がりました。
編入試験の受験を決定
ミクロ経済学の期末テスト直前の授業。
テスト前には決まって教授が過去問の解説をしてくれるのですが、既に十分準備をしていたので聞き流して本を読んでいました。
「Everybody lies 誰もが嘘をついている」という本です。
この本は、Googleのデータサイエンティストが人々の検索履歴から不道徳な真実をあぶりだす内容です。
当時の自分はこの本を読んで、自分もこのように不道徳な真実を統計学や計量経済学で発見したいと強く思うようになりました。
こうした形で経済学と現実のつながりが見えてきて、案外面白いと思うようになっていたこと。
また経済学の編入試験と期末試験の問題を見比べて、これならいけるかもしれないと踏んだこと。
この2つを確信したことで迷いが消え、編入試験の受験を決定しました。
行き先を台湾に変更
自身のTOEICのスコアを見直した時に、オランダには行けなそうだとわかったので行き先を再度検討しました。
その中で浮上してきたのが国立台湾大学でした。
理由としては
- 日本から近いので編入学試験を受けに行ける
- 台湾ではトップの大学で、教育水準が高い
- 中国語を学びたいと思っていた
- 明治では3年次からだった計量経済学が2年次で学べる
- 色々面白そうな授業がある
- 費用が欧米に比べて安い
といった感じでした。
そこからは留学の志望理由書を何度も書いては推敲し、英語の先生にも添削してもらいました。
完全に満足のいく志望理由書を書き、提出。
無事に面接も突破して、晴れて国立台湾大学への1年間の交換留学が決定しました。
奨学金の申請の案内が来ていたので提出し、成績ギリギリでJASSOから月6万円を給付してもらいました。
大学からも留学生向けの給付型の奨学金をもらうことができました。
ただ出願時から編入試験出願までの間は不安でいっぱいでした。
学部1年生の時から交換留学に申し込む人はほぼいない上、留学しながら編入試験を受ける人は皆無でした。
また出願基準を満たせるかどうかの他に、奨学金の返納などでも不安要素がありました。
しかしその不安は解消できないので、頭に不安を抱えながら留学に出発しました。
大学2年
留学生活前期
前期でとった授業はこんな感じでした。
留学生は10~15単位程度の履修が普通だったのですが、自分は編入学試験の単位認定のため、18単位を取らざるを得ませんでした。
授業自体は面白いものが多く、さすがトップ大学は違うなあと思っていました。
人間関係でも、計量経済学で台湾やイタリアの学生とグループを組んだり、General Chineseではロシア人の子と仲良くなったりしました。
昼は授業に出て、夜は留学生同士で飲み、試験前は一緒に勉強をして、前期はそんな感じの生活でした。
カンボジア旅行
留学前期が6月下旬に終わり、後期が始まる9月上旬まで長い夏休みが始まりました。
この夏休みに英語を使わなかったら、せっかく上げた英語力が失われてしまうという強い危機感がありました。
そんな折に前期のGeneral Chineseで知り合ったロシア人の女の子から
「ベトナムに来いよ」と言われ、かくかくしかじかがありカンボジアに行くことになりました。
対戦車ロケット砲を撃ちにいく
カンボジア旅行記は
に書いてあるのですが、ここには書いていないカンボジア旅行最終日の7日目についてです。
この日は、深夜にロン島からプノンペンのホステルに到着して一晩寝ていたら、ベッドが上だった人から声をかけられたところから始まりました。
「もしかして日本人の方ですか?」
暇つぶし用で持ってきて、たまたま枕元においていたプロ倫を見かけて話しかけてきたようです。
偶然日本人に会えたことを喜び、それと同時に今日の予定を思い出しました。
そもそもカンボジアに旅行で来た目的は、対戦車ロケット砲やグレネードランチャーを撃ち、手りゅう弾を投げることでした。
興味がある人はこちらから。
行きたい人は事前にメールで予約を取りましょう。
カンボジアは世界でも数少ない、こうしたミリタリーアクティビティのできる国なのです。
そこで、声をかけられてから二言目で
「今日ロケットランチャーを撃ちに行くんですけど、せっかくなので一緒に行きませんか?」
と誘うと、数秒の逡巡の後
「いいね、いこう」
という話になりました。
一緒に近くの中華料理屋で朝食を食べ、お互いの身の上話をしていました。
話を聞くにその人(以下、Eさん)は海外の超有名大学に通っているエリートで、その時点ではカンボジアには遊びで来ているバックパッカーでした。
カンボジアには割と長い期間いるらしく、色々付近の情報を教えてもらいました。
昼の12時に、ロケットランチャーを撃てる場所へ向かうためのお迎えが来ることになっていたので、ホステルに戻って荷物を整え、待ち合わせ場所に向かいました。
人が一人増えることの問題は特になかったようなので、Eさんと一緒に車に乗り、酷い砂埃とロクに整備されていないデコボコの道に2時間ほど揺られました。
射撃場の場所は、カンボジア国軍が運営している軍事施設という関係上、かなり辺鄙な場所でした。
ロケットランチャーは当時は1発435ドル
グレネードランチャーが1発120ドル
手りゅう弾が一発120ドル
ロケットランチャー用ガスタンクが36ドル
交通費が20ドル
で、合計700ドルちょっとという内訳でした。
この費用は親から奨学金を担保に借金して賄いました。
ロケットランチャーを撃つのめっちゃ気持ちいいですよ。
人生で一回はやってみるといいですね。
ロケットランチャーを撃って気持ちよい気分だった帰り道、送迎用の車にアクシデントが発生しました。
未整備のデコボコ道のせいで、送迎用の車が途中でパンクしてしまいました。
修理セットも持っていないらしく、射撃場からもう1台の車で修理キットを持ってくることで決まりました。
それまで1時間ほど暇になって退屈だなーと思っていた矢先、ドライバーが近くの露店の人と話し始めました。
ドライバーの人が手招きをするので車を降りて、露店の方に向かうとどうやら酒や飲み物を売っているみたいでした。
Eさんも自分も喉が渇いていたので、そこで紅色着色料マシマシジュースを購入し、露店の店主夫婦、ドライバー、Eさん、自分でプチ飲み会が開催されました。
着色料ジュースは激甘でしたが、見た目のわりに味はよかったです。
氷に関しては重々気を付けていましたが、この時は全く気付かず普通に飲んでいました。
特に腹をこわすこともなかったので、業務用として販売している氷だったのかも。
そして店主夫婦がおつまみを2種類ふるまってくれたのですが、1つ目の野菜とソーセージを煮たものはピリ辛でおいしかったです。
問題はもう1種類の方で、こちらが出てきました。
バッタを煮て炒めたもの(?)らしいです。
見た目自体は結構バッタそのままで気持ち悪いのですが、実際に食べてみるとしょっぱくておいしい酒のつまみでした。
味付けも日本人なら好きな味付けでした。
バッタって意外に食えるし、意外においしいもんだなあとEさんと感動していました。
いざというときのために作り方聞いておけばよかったな。
3人目
Eさんと一緒にロケットランチャーを撃ちに行ったあと、帰り道でEさんからプノンペンで夜市をやっているという話を聞きました。
一緒に行かないかと誘われ、せっかくなので一緒に行くことにしました。
この時、せっかく旅行に来たのだから現地の女の子とセックスがしたいと思い、Tinderを課金していました。
写真が微妙だったのか、プノンペンではあまりマッチしなかったのですが、1人だけ英語が話せて仲良くなれた女の子がいました。
夜市で買った晩御飯を食べている中、自分のテンションが上がっていることを感じていました。
ちなみにこの茣蓙の横に座っていた白人女子大生が美人でした。
Tinderで仲良くなった方の女の子とはとんとん拍子でLINEを交換し、今日の仕事終わりに会う約束を取り付けました。
時間も割と遅い時刻だったので、これはワンチャンあるなーと思ってウキウキでした。
それまでは時間があったので、トゥクトゥクを捕まえて近場にあったイオンモールに行きました。
中はかなり広く、田舎のイオンってこんなデカさだよなーと思いながら中を散策。
スーパーマーケットがあったので、夜その子と一緒に飲む用のお酒と、Eさんのアドバイスでちょっとしたネックレスを購入しました。
この時件の女の子から電話がかかってきて、LINEのビデオ通話で話したのですが、英語も流暢ではないものの話せており、まぁまぁかわいいなと思っていました。
特に違和感もなく、仕事が終わる時間を聞いてその後に、職場の前で落ち合うということだけ決めました。
イオンモールからウキウキでホステルに戻り、待ち合わせ時間2時間前の9時まで寝た後、気合をいれてヘアセットをしました。
お酒は少々ぬるくなってしまいましたが、こちらにはとっておきのネックレスという武器があります。
今日はやれるだろうと甘い希望的観測を持ちながら歯を磨いていたら、その子から着信が入っていました。
そこで音声通話で折り返すと、その子はすぐに出たのですが、なにやら様子がおかしい。
「お店に遊びに来て」
「OOというバーなの」
「お店が終わった後じゃなくて今すぐ来て欲しい」
「営業時間後じゃなくて今」
と畳みかけてきます。
察しのよい自分は「これただのガルバの営業かよ…」と絶望しました。
せっかく買ったとっておきのネックレス投資や酒が無駄になったことも、その絶望そして悲しみを増幅させました。
ここで自分が
「え、お店の仕事が終わったらという話だよね?」
「お仕事中に会うのはダメだよ」
「仕事終わりに会って、お酒も用意しているし飲もうよ」
と一縷の望みをかけて提案をするも一蹴。
最終的にその子が一方的にキレ始め、電話を切られました。
なんだこの糞アマと思って、怒りと悲しみの感情を抱きながらすぐにブロックしました。
Eさんに夜会う女が営業の糞アマだったことを伝えると、Eさんはクラブに繰り出すつもりだったらしく、一緒にクラブに行くことになりました。
深夜1時くらいに起きて行くことを決めると、それまで仮眠をとることにしました。
目を覚ましたら深夜2時くらいで、やべえガチ寝坊したと思いつつEさんのベッドを見たらEさんも熟睡していたようです。
もう2時です、行きませんか?とEさんを揺り起こし、軽く歯を磨いて近場のクラブに向かうことにしました。
クラブの前には、中のスタッフに財布を盗まれたと英語で騒いでいた集団がいました。
入りづらいな~と思っているとEさんが仲裁に入りに行きました。
一応自分も行きましたが、会話力が絶望的に低くただ傍観しているだけでした。
仲裁は無事終わったらしく、さすが海外名門大学に通っているだけあるなあと感心していました。
でくのぼうみたいなセキュリティにパスポートを見せ、中にはいりました。
プノンペンのクラブは18や19でも入れるらしいです。
ダンスフロアの込み具合はめっちゃ渋い日のWARP Shinjuku程度でした。
人が点在して、余裕をもって踊ることができるような密集度です。
Eさんとコンビを組んでナンパでもするのかなと思っていたところ、Eさんが
「ちょっくら俺行ってくるわ」
と言い、一人で女の子に声をかけに行っていました。
一人の女の子がダメなら次、という感じで箱内ローラーをしていました。
心の中で、「メンタルも英語力も凄いな、これが海外ナンパってやつか」と感心しました。
自分はチキンだったので、まずはどんな風に声をかけているのかを観察しました。
ただ観察とは言ったものの特に参考になりそうな情報は得られませんでした。
ただの案山子ですな。
しばらくEさんを観察していると、女の子を連れだせる段になったのか、自分のところに戻ってきました。
「ちょっとこの子と出るわ、100ドルで話がまとまった」
と言ってクラブの入り口にあった階段から外へ消えていきました。
そこで自分はようやく、カンボジアのクラブがどのようなところかを理解しました。
クラブに来ている女の子は売春婦ばかりで、さっきの声掛けはその交渉だったのかと。
今後の旅行のことを考えると&カンボジア人女性がタイプではないことを考えるとここで金を散らすのは惜しい。
そんなことを考えながらお酒を飲んでいると、ある女の子が自分に話しかけてきました。
どうやらその子は今日誕生日で友達とVIPシートで飲んでいるらしく、一緒に飲もうよと誘ってくれたのでした。
提案を快諾し、その子が座っていたVIPシートに座りました。
付近にはガタイは良いが無愛想な黒人2人が座っており、国際色豊かに飲んでるのだなあと呑気なことを考えていました。
VIPシートで女の子2人に挟まれて音楽を聴きながらタダ酒を飲み、最初はめっちゃ気分いいなあと思っていました。
酒をしこたま飲まされそうになりましたが、赤くなりがちな顔ともう無理という限界サインで耐えていました。
1時間ほど経過すると、片方の女の子がおっぱいを腕に擦りつけながら
「私と200ドルで遊ぼう」
と言ってきました。
自分は察しが良いので、「あ、こいつら2人とも売春婦かよ、クソ」と心の中でつぶやき、自分が置かれている状況を今ようやく理解しました。
座席がコの字型になっており、後ろに逃げることはできない。
両サイドを売春婦に固められており、それを挟むようにガタイの良い黒人がいる。
「うわ、これハメられたな…」と軽く絶望しかけている俺と、この状況を打開しなければと考える俺がそこにはいました。
この状況を打開しなければ、と考える自分は2つの策を思いつきました。
1つ目は黒人と仲良くなって逃がしてもらう積極策
2つ目はクラブが終わるまで粘った後逃げる消極策
ただ酒を飲んで胃がしんどいし、極力早く帰って寝たかったので積極策を採用。
売春婦がトイレに行った隙に、無愛想な黒人に話しかけてみました。
予想通り無愛想で、自分のトークスキルでも会話を盛り上げることはできず。
売春婦が帰ってきて、積極策は破綻。
となると消極策を取らざるをえません。
股間を自分の太ももに擦り付けてくる売春婦からの打診を延々といなしつつ、早く終わらないかなあと考えていました。
だが向こうも向こうで早く決めたいのか、だんだんと打診が強引になってきました。
とりあえず片方は選んで欲しいと言われたので、どちらか選択することにしました。
右の売春婦は色黒で華奢だが胸はあり、顔は微妙だったがスタイルはまあまあよい。
左の売春婦は色白でややぽっちゃり、メイクでかなりごまかしていそうな雰囲気。
まぁ抱くなら右かなあということで、右の売春婦を選びました。
2時間くらい粘ったが一向に解放してくれる気配がなかったので、そこで第3の選択肢を考えました。
売春婦と値段交渉をして極力被害額を抑える妥協策です。
100ドルに負けてくれと頼むと、これに関しては案外さくっと通りました。
後に調べてみると、200ドルは割と相場よりふっかけた値段で100ドルが相場だったようです。
選んだ子に手を引っ張られてダンスフロアで軽く踊ることになりました。
だが正直100ドルでも渋いので、そこから1時間くらい行く行かないで揉めていました。
しばらくすると選ばなかった女の子やガタイの良い無愛想な黒人2人がやってきて、さすがにこいつらと喧嘩したら勝てねえなあと思いました。
自分は降参し、いいよいこうぜと選んだ子を外に連れ出しました。
ホテル事情とかは何も知らないのでその子に任せ、Grabでトゥクトゥクを呼び、近くのホテルに行きました。
もうトゥクトゥクに乗るころには色々吹っ切れていたので、キスをしたりいちゃいちゃしたりしていました。
ホテルに入って長めの前戯と普通のセックスをした後はしばらく睡眠をとりました。
別れ際、お金を払うときに
「俺は今後も旅行を楽しみたいが、学生でお金がないからせめて半分の50ドルにしてくれないか」
と提案すると、昨晩のセックスで気に入られたのか、いいよと言ってくれました。
最後にフェイスブックを交換しようと言われましたが、自分のスマホのバッテリーが切れていました。
そこでその子のスマホで自分のフェイスブックを登録し、トゥクトゥクの予約をしました。
トゥクトゥクが到着したので乗り込み、15分ほど眠い目をこすっているとホステルに到着。
スマホに充電ケーブルを刺し、死んだように眠りました。
ぐっすり寝た後、スマホの充電を確認すると100%。
そういえば昨晩、フェイスブックで売春婦を登録したっけと思い出し、フェイスブックを開きました。
メッセンジャーでその子からありがとうとメッセージが来ていたので適当に返信。
そういえば詳細な情報を知らないけど、年齢とか何歳なんだろうと思ってプロフィールを開きました。
ん?1986年?34歳だったんだ。
凄いなあ24くらいだと思ってたわ。
あれ?男?まじ?あれ男なの?
ニューハーフってこと?
と疑問符が大量に頭に浮かびました。
メッセンジャーで聞いてみるとはぐらかされたので、本当にニューハーフだったみたいです。
ただ食いつきはなぜか高く、1年くらい節目節目でメッセージが来ました。
今見たら2020年のクリスマスにもメッセージが来ていました。
絶望的な起床をかました後、Eさんと合流しました。
Eさんはどうやら楽しい夜を過ごせたようでうらやましかったです。
自分は場末のラブホで34のオカマを5000円払って買春していましたよ、ええ。
最近の手術は精巧で本当に気づかないってガチだったんですねえ。
タイで3週間バックパッカーになる
カンボジアからタイに移動し、ロシア人の子とは別行動でバックパッカーという名のニート生活をしていました。
安いユースホステルやホテルを取り、涅槃像を見に行ったりボートに乗ったりクラブに入れなかったり、Tinderで知り合った子とデートしたりしていました。
おかげ様で英語力は下がるどころか向上し、後半はTOEFLが迫ってきていたのでBarron’sのライティングを適当なレストランでこなしたりしていました。
TOEFLで84点を獲得
日本に帰国して数日後、TOEFL iBTを受験しました。
以前よりは明らかに読むスピードも上がり、リスニングの理解度も上がっていました。
スピーキングは練習していなかったので微妙でした。
ライティングはBarron’sのテンプレート通りに埋めておきました。
2週間ほど経って結果が出ると84点、昨年の京大合格者と同程度の水準でした。
京大合格に一歩近づいたことと、自分の戦略通りに事が運んでいたのでとても嬉しかったです。
留学生活後期
夏休み明けの後期は大学院科目でもいけるんじゃね?と思って、すべての授業を大学院科目にしてしまいました。
編入試験の直前1カ月あたりは授業も休みがちで、課題もなかなか出せず、グループワークも予備知識がないのでわからず、相当キャッチアップがしんどかったです。
Social Network Analysisは途中から行かなくなってしまい最終レポートも出せずじまい。
Financial Technologyは課題がハードすぎて実装できない&最終レポートの内容がガバガバすぎて未提出でFが来ました。
ただFintechの授業はGeneral Chineseで仲良くなったチュラロンコン大学の中華系タイ人の女の子と一緒の授業でした。
自分はぼっちでFintechの授業を受けていたので、その子経由でタイ人学生のグループに入れてもらい一緒に授業を受けていました。
このFintechの最終プロジェクトで、Bitcoinの自動取引プログラムを作ることになりました。
自分はこれにドはまりし、文字通り寝食を忘れて、他の授業をサボってコードを書いていました。
この時にBitcoinの自動取引プログラムを書いた経験が、後の名大の情報編入につながっていきます。
編入試験に全落ち
2019年の編入試験は
- 京都大学経済学部 => 一次(英語)は通過、二次(筆記)で不合格
死にました、ありがとうございました pic.twitter.com/vadTF9r9Y0
— 鳥 貴士@名大編入 (@tori_toutosh1) December 16, 2019
- 大阪大学経済学部 => 一次(筆記)は通過、二次(面接)で不合格
え、阪大死んだんだがマジ? pic.twitter.com/yMq4f1QhVK
— 鳥 貴士@名大編入 (@tori_toutosh1) November 29, 2019
- 神戸大学経済学部 => 不合格
神戸落ちたのは予想の範囲内ではあるとはいえ残念だ
落ち着いてゼミ試と阪大2次の準備だな
全落ちの可能性はまだまだある— 鳥 貴士@名大編入 (@tori_toutosh1) November 15, 2019
京大の合格発表の日は心臓が張り裂けそうで、こうして書くだけでも当時の感情がありありと思い出せるほどでした。
落ちて腐っていてもしょうがないので、来年は休学してリゾートバイトで金貯めてワーホリにでも行こうかなーと思っていました。
不合格体験記はこちら。
コロナと中国人の彼女との遠距離恋愛
編入試験に全落ちし、コンプレックスまみれの欠陥品だった自分にも、自分を好いてくれる彼女ができました。
彼女(以下Fちゃん)は中国からの留学生で、Bitcoinの授業のオリエンテーションで一言二言会話をしたのが最初の出会いでした。
自分はこと他人に関しての記憶力が高くないので、オリエンテーションで会話をしたことも忘れてしまっていたのですが。
Fちゃんとはその次の授業で横の席に座っていました。
この時の授業で、最初の中間課題でプレゼンテーションがあると発表がありました。
そこで近くにいたFちゃんと他2人と自分でグループができました。
その後Fちゃんとは授業後にご飯に行ったり、お酒を飲んだりと次第に仲良くなっていきました。
Fちゃんは武漢にある中国トップクラスの大学生で、成績も良く英語も自分よりでき、アメリカのトップ大学院を目指していました。
実際自分よりもよっぽど優秀で、人として尊敬できる女の子でした。
プレゼンテーションは他2人のメンバーが失踪したため、自分とFちゃんの2人で完成させました。
そこから一緒に遊びにいくようになり、蒋介石記念堂でデートしたり、夜市で食べ歩いたり、台中に旅行したりしました。
明治大学 pic.twitter.com/6dtW1kwqR0
— 鳥 貴士@2021名大情報編入 (@tori_toutosh1) December 14, 2019
当時の自分は特段彼女が欲しくなかったため、セックスしたいとは思うものの、付き合いたいと思ってはいませんでした。
旅行の時は一緒に寝たりキスまではすれど、彼女は処女で付き合うまではしないと言われたため、最後まではしませんでした。
当時は、以前のただセックスしたいだけという思考からは、まだ脱却できていなかったと思います。
クリスマスにあったサークルの発表会を見に来てくれたり、一緒にイルミネーションを見ながら手をつないで深夜の台北を散歩したりしました。
夜の大学の人目のつかないところでFちゃんに襲われたりもしました。
しかし月日は経ち、Fちゃんは中国に、自分は日本に帰る日が、指で数えられるほどに迫ってきていました。
帰国一週間前、これが台湾で最後に一緒に飯を食うことになるのかな、と思いながら火鍋のお店に誘いました。
General Chineseが終わった後合流し、いつものように手をつないで師大まわりを歩いて火鍋のお店に入りました。
だしをえらび、この野菜苦手なんだよねと嫌いなレタスを押し付けられ、火鍋の肉を交換しました。
火鍋に投入する食材が徐々に減っていくさまを、自分たちに残された時間と重ねていました。
こうして気軽に一緒の時間を過ごせるのももうおしまいなのだと体が理解し、物悲しい気分に襲われていました。
その後はいつもなら、Fちゃんを寮の前まで送り届けてお別れしていましたが、この日はデートを継続しました。
この日は寮の近くの人目につかない場所で、これで最後かな、と思いながらキスをしました。
キスをした後、Fちゃんは自分に告白をしました。
Fちゃんが自分のことを好いてくれていたのはわかっていましたが、あえて見ないふりをしてきました。
留学が終わった後お互い別の国に帰国することや、遠距離恋愛について考えたくなかったので、見ないふりをしていたのでしょう。
数秒の逡巡の末、Fちゃんと付き合わない未来より、付き合う未来の方が気になっている自分を自覚しました。
返事は「Today is our first day.」と少し格好を付け、Fちゃんと付き合うことになりました。
その場でWeChatをインストールし、自分の友達の欄にFちゃんが登録されました。
そしてそのままタクシーを捕まえ、今から入れるホテルを探し、一緒に泊まりました。
お互いシャワーを浴び終え、この時にFちゃんと初めてセックスをしました。
その後は自分が帰国するまで毎日デートしました。
帰国する直前までBitcoinの授業の課題を一緒にやり、荷物の梱包を手伝ってもらい、台湾土産のパイナップルを買いにいきました。
そして一緒に桃園空港に高鐵で向かい、パイナップルの検疫を済ませ、フライトを待つだけになりました。
最後に別れのキスをして、写真を撮りました。
自分は仲の良い友人と別れるときや卒業式などでも全く泣かないタイプの人間でした。
ただこの時は涙目をこすって別れを告げ、すぐに会おうねと伝えて搭乗ゲートに向かいました。
Fちゃんと会ったのはこれが最後でした。
土産のパイナップルと共に
さらば台湾
楽しい1年だったよ pic.twitter.com/DOdGjjUPhS— 鳥 貴士@2021名大情報編入 (@tori_toutosh1) January 10, 2020
Fちゃんも自分が帰国した数日後に帰国しました。
2020年1月、この頃は武漢で新型肺炎が報告されていた頃でした。
Fちゃんは武漢にある大学の寮に住んでいたため、感染してしまわないか気が気ではありませんでした。
すぐに武漢を脱出し、未感染のまま難を逃れたと聞いて一安心しました。
この頃は毎日ビデオ通話をしていました。
付き合って1カ月の記念日を動画で祝ったり、メッセージカードを写真で送ったりしていました。
当時は新型コロナウイルスがここまで流行するとは思っていませんでした。
3月には中国に行き、彼女に会いに行こう、会えるだろうと思っていました。
法人営業(インサイドセールス)のインターンへ
この段階では、プログラミングでお金を稼ぐこと、留学して高い英語力を手に入れることは達成できていました。
ただ、大学時代の目標を振り返った時、自分の手でお金を稼いだり起業したりはまだできていませんでした。
そこで自分には何ができて何ができないのかを振り返りました。
自分ができることは、Webアプリケーションを作ること、つまり価値を生み出す素地がありました。
その一方で、価値を売るスキルが欠けていることに気づきました。
そこで営業・マーケティング能力を高められるようなインターンに行きたいと思いました。
加えて
- 1年次のインターン先の社長が、営業をやってお金を稼いでいたこと
- 中国にいる彼女(Fちゃん)に会うためにお金が必要だったこと
もあって、歩合制の法人営業のインターンを探していました。
そうした条件で探して見つかったのが、渋谷のシェアオフィスを拠点にしているQuickWorkという創業して間もないベンチャー企業でした。
当時のQuickWotkはApoKaku(現SalesNow)というターゲティングが簡単にできる営業リスト。
そしてDaniel(現SalesNow Form)というフォーム営業ツールを販売していました。
ここを第一希望にして複数長期インターンの面接に行き、ここ以外は落ちorすぐ辞めました。
終わった今でこそ、3か月で歩合の法人営業で50万円を稼いだと言っていますが、当時は全く順風満帆ではありませんでした。
自分自身、人当たりはよかったものの、感情の機微や対人コミュニケーションをはじめ、「仕事」が本当に苦手でした。
初日から時間管理がガバガバで迷惑をかけたり、営業スクリプトを棒読みしたり。
他にもクレーム対応の仕方がまずく、顧客を怒らせてしまったりと幸先は非常に悪かったです。
大口顧客からの解約を食らったり、全然使えないじゃんとのことで返金対応を迫られたり。
当時は電話を掛けるのも出るのも怖くなっていました。
iPhoneの着信音は今でも割とトラウマです。
それでも続けていると、ちょっとずつ成果が取れるようになってきました。
初月は3万円、2か月目で10万円、3カ月目で37万円を稼ぎ、会社に多くの迷惑をかけながらも受注が取れる瞬間はとても気持ちがよかったものです。
インターンを開始した序盤に言われた「お前は営業に向いてるよ」という言葉を胸に、自分なりに頑張ってはいました。
スクリプトを改良したり、競合と比較したメリットを訴求したり、本読んで勉強したり、アポに行ったりと、やれることは色々やりました。
もっとも、経営陣には自分の失敗の後始末をさせてしまっていたり、おそらく自分を雇うことが負債になっていた感はありました。
あの節では大変ご迷惑をおかけしました。
4月に入り大学の授業で忙しくなってしまったこと、休みの日にもかかってくるクレーム電話対応のストレス。
そして膨大なリードとタスクの山から、自分は完全に燃え尽きてしまいました。
4月中はそれでも続けようと尽力しましたが、結局諦めざるを得ませんでした。
結局、3カ月ちょっとで50万円を稼げたので、中国に旅行に行けると思いきや、コロナも次第に悪化し飛行機が飛ばなくなりました。
彼女とは営業インターンをしていた頃も毎日のように話していましたが、4月に入ると音声のみの通話になりました。
大学3年(1回目)
Fちゃんとの別れ
営業のインターンが忙しくなり、彼女もインターンを新しく始めたのでだんだんと通話の頻度が下がっていきました。
それでもビデオ通話と音声通話の曜日を決めて通話をしたり、通話をしない日でもメッセージのやり取りをしたりしていました。
自分が営業のインターンで契約を取ったことを喜んだり、彼女がアメリカの大学院に合格し、一緒に祝ったりもしていました。
しかし授業が始まる前の3月は、中国では感染収束の兆しが見えていたものの日本や諸外国で爆発的な感染を引き起こしていました。
そのため飛行機は飛ばず、中国には行けずじまいでした。
電話の頻度が月日を経るごとに減っていき、少しずつ距離が遠くなっていると感じていました。
最終的に、6月の後半に彼女と別れました。
最後はお互い泣きながら、友達という関係に戻ること、そして往来が再開されたら会いに行くことを約束しました。
その後もちょくちょくメッセージはしていましたが、いまだに一度も会えていません。
早く中国に行けるようにならないかな。
TOEFL 90点を獲得
コロナ禍で通学の必要がなかったので、編入試験をリトライすることを決めました。
その過程で、TOEFLももう少し点が欲しかったので8月に再度受験をしたところ、90点を獲得できました。
リーディング、リスニングでも90点を取れるような手応えがなく、本当にうれしかったです。
TOEFLでいい点を取れると嬉しいですね。
この頃はFちゃんのアカウントを借りて中国TPOのサイトで過去問を解いたりしていました。
90点取ったことをFちゃんに報告したところ
ありがたい次の目標をいただきました。
名古屋大学情報学部合格
名古屋大学情報学部の自然情報学科自体は受験を決めるもっと前から知っていました。
受験を決めた理由は
- もともと文転組だった&経済数学でそれなりに数学の基礎をやっていた
- 4年生大学からの編入試験受験が可能
- 試験科目が英語外部試験・数学・小論文・面接と追加的な対策が少なそうだった
- データサイエンスと自動取引がやりたかった
からです。
この時の話は
に詳しく書いてあります。
名大合格発表以降
名大から合格をいただいた後、京大阪大は受験をするかどうか迷っていました。
一年前に落ちてもなお行きたい大学で、割と名大は受かると思っていなかったこともありました。
ただ、名大の合格発表が8月31日、京大阪大の受験が11月初頭でした。
名大情報 – (京大経済, 阪大経済)の価値の増分が、2か月という期間に見合わないと考え、その浮いた2か月を使って今抱えている最も深刻な悩みを解決しようと思いました。
また、名古屋に引っ越すことから、東京でしかできないことをやりたいと考えていました。
そこで自分の人生を振り返り、最も切実な問題を考えると、女性関係が浮かび上がってきました。
自分は海外での勝率は比較的高かったのですが、外国人や日本人という属性で勝てているが、日本では自分は全く魅力がないという自己認識がありました。
加えて国際恋愛や海外の女の子の交流を通して、母国語でのコミュニケーションがいかに円滑で、外国語でのコミュニケーションがいかに大変かを知りました。
結婚するなら日本語の通じる子が良いなあと漠然と思うようになっていました。
ただ改めて現実を見てみると、日本で自分を異性として魅力的だと思ってくれる人は、周りに1人もいませんでした。
確かに日本語を話せる外国人との結婚や、日本語が母語という条件を捨てるという選択肢はありました。
しかし、今は新型コロナウイルスが蔓延しているため、そのような子を探すのはほぼ不可能でした。
加えてそれは本質的に自信の価値を高めてはいない消極策でした。
そこで自分が、日本では女の子から全く魅力的に映らない現実を受け入れなければならない。
そして魅力を高めるという積極策に出なければならないと痛感したのです。
モテないという現実
まず初めに、ほとんどすべての男は気持ち悪いです。
自分自身、気持ち悪い側に判定される人間です。
自分がどっちなのかわからない人は、気持ち悪い側の人間なので安心してください。
特に日本では「気持ち悪い側」に分類される男が多いです。
「気持ち悪い」とは「生理的に受け付けない」と同じ意味です。
要するにモテる男よりモテない男の方が多いということです。
下の画像はそれをわかりやすく説明しています。
https://note.com/sumomodane/n/n514814103a9e
学術的にはこれが真実かどうかの統計的検証が大事なのでしょうが、実用的にはこれを事実として認識すべきです。
そしてこの表はまだ優しく、実際に需要のある男は半数どころか2割もいないでしょう。
この表から、恋愛・結婚ゲームにおける難易度は圧倒的に男の方が難しいことがわかります。
女の子は妥協すればマッチングが成立しますが、男は妥協してもまた激しい競争に晒されることになるのです。
女の子の恋愛アドバイスがアテにならない理由は、この難易度の差から生じる認知の違いが大きいからです。
クラブとかアプリによくいる態度だけデカい女の子はぜひ、男に転生して同じように行動してみて欲しいですね。
デートに誘って
「みんなで行ったら楽しそうだよね!他に誰誘おうか。」
「今月来月は空いてる日ないかな。」
「予定空いてる日がわかったら連絡する!」
「(2, 3日前に)やっぱり予定はいっていけなくなっちゃった、ごめん。」
告白して
「OOくんは優しくていい人だけど、私の他にもっといい人がいるよ」
「(告白した子の友達に)OOちゃんが嫌がってるから近づかないで」
まぁ全部実際に言われた言葉なんですが。
女の子側は言う側なので、言われた方の心を理解できません。
ではどうしてこのように断られたり、嫌がられたりするのでしょうか?
「普通の男」なら一度くらいは経験があると思います。
理由は単純明快で、「キモい男だから」です。
より詳しく言えば、モテない男との遺伝子を残したところで無意味だから寄るな、ということです。
では逆にモテる男とは、「女の子が」優秀な遺伝子を持って「いそう」だと判定する要素を多数持っている男になります。
そこで魅力について大きく分けると
- 外見・肉体的魅力
- 内面的魅力
- 社会的魅力
の3つからなっています。
これらすべてが高い能力値の男が最もモテる、すなわち後世に子孫を残す期待値がもっとも高い男であると言えます。
要素還元的に言えば、
- 若くて顔面が整っているイケメンで肌がきれいでスタイルの良い高身長かつ姿勢もよく健康的に筋肉質でいい香りがして声がよくおしゃれで清潔感があり
- 女慣れしていて付き合いやすく話が上手かつ聞き上手で真面目でいちずで連絡がマメで落ち着いていて心優しく感謝を忘れない礼儀の正しさがあるうえにポジティブでノリが良く自分に自信があって男らしいギバーにも関わらずどこか抜けているところがあり
- 高収入のお金持ちで頭が良くて高学歴で友達が多くて人望が厚く趣味や興味関心の幅が広く読書を欠かさず尊敬できる部分があり社会的地位が高い
ような男ですね。
以前のことはあまり知りませんが、現代は健康なイケメンかつ女慣れをした三高男(高身長・高収入・高学歴)がモテる時代です。
いつの時代もそうか。
そしてこの3つの中で「モテなさそう」感を最も醸し出すのは、外見的魅力が一番大きいです。
もし外見的魅力が問題なら、そこがボトルネックです。
内面とか社会的魅力とかを磨いても無意味です。
外見はいわば商品のパッケージです。
情報が何もない中で商品を手に取る時、パッケージ以外参考になりません。
そしてパッケージが魅力的でない商品を深く知ろうとする人はごく少数でしょう。
我々は所詮生殖市場における商品に過ぎないのです。
自由恋愛は合法的な優生学思想の実体です。
差があれば優劣がつきます。
人はOOだけではない、というのは差を評価する尺度が無数にあるということしか言っていません。
その尺度に重みがかかっていることとは矛盾しないのです。
非モテ問題解決までの戦略
雑な図ですが、エリヤフ・ゴールドラット博士の開発したTOCの概念図です。
経営学部の人ならおなじみの「ザ・ゴール」で提唱されている概念です。
ここでいうリソースの投入は出会いの数です。
出力は、自分のことを魅力的だと判断する女の子の数です。
ボトルネックは魅力的ではないと判断されるポイントです。
この図から、魅力的でないと判断される致命的なポイントを「順番に」解決することの重要性がわかります。
ボトルネックの抽出と優先順位の並べ替えは単純で、「重要度」が高いものから解決すれば良いです。
緊急度はどれも同等なので。
昨今のジャニーズやアイドル礼賛を見るに、短期的に配偶者獲得可能性を高める要素の重要度は「顔がイケメン>女慣れ>三高」という仮説が強そうです。
女性の社会的地位の向上によってGood dadの必要性が薄れ、Good geneをより評価する流れができているとも言えます。
長期的な配偶者獲得可能性については「顔がイケメン<女慣れ<三高」のように評価軸が逆転しますが、長期は短期を包摂します。
そのため、より緊急度が高いのは長期よりも、短期的な配偶者獲得可能性の向上であると言えます。
そこで自分は短期的な配偶者獲得可能性の向上のために
- 外見・肉体的魅力の改善。すなわち女から足切りを食らわない外見、もしくは加点になるような外見を手に入れる。
- 外見改善によって場数を積める状態にし、ネット・クラブ・ストリートナンパでひたすら女慣れをする。
- ホストやヒモで収入を得られるようにして、投資額を回収する。
という戦略を立てました。
意外と思われることが多いのですが、もともと自己投資については懐疑的な方でした。
以前は自己投資は消費を正当化するためだけの方便であると捉えていました。
そのため、早期から全世界型インデックス投信への金融投資が最強!という考えのもとジュニアNISAをやったりしていました。
しかし30万円の運用で5万円程度しか増えなかったので、これを経験に換えた方がリターンが大きいと判断しました。
またこの頃、このままでは自分は結婚することすらできず、孤独な老人として死を迎えるのかもしれないという恐怖もありました。
そこでこの半年に、以前の法人営業のインターンで稼いだ分の40万円から予算を取って、これで非モテを脱却する決意を固め、行動に移すことにしました。
外見改善
そんな折にTwitterで、昔からウォッチしていたナンパ師が外見コンサルを始めたというツイートを見かけたので、すぐに応募しました。
9月初頭時点で上記の戦略があったので、最初にやることは外見改善以外にありませんでした。
料金は3カ月3回のコンサルで10万円(今はめっちゃ高くなっていると風のうわさで聞いた)でした。
その場で現金10万円を手渡し、コンサルをお願いしました。
コンサル料以外の私物の購入で15万円ほどを追加で使い、3カ月後には自信がつく程度に外見の改善に成功しました。
かっこいいとかイケメンと言われる頻度も上がって非常に満足しました。
加えて自信もついたのでとても良い投資だったと思います。
せっかくなので、Beforeと顔を隠したAfterの写真だけ載せます。
これより同じくらいもしくはマシだろという人は、あなたは自分より良いスタート地点にいます。
昔から写真を撮られることが嫌いでした。
正確には写真に写る自分の醜さが嫌いでした。
今でも笑顔は自分の笑顔が好きになれません。
いやー、Beforeのキモオタイガグリ坊主に下心満載で迫られるとか控えめに言って公害ですよね。
Before
After
顔を含んだAfterの写真、具体的に何をしたのか、あなたはどうすればよいのかは有料記事で書きました。
この外見改善を通じて自分に自信を持てるようになりましたし、写真を撮ることも好きになれました。
ナンパ
外見改善と並行して、第2のボトルネックである女慣れを改善するために、マッチングアプリやストリートナンパやクラブナンパを始めました。
この頃シェアハウスを始めたという話をしていたと思いますが、ナンパ師同士のつながりでやっていました。
ストリート
女の子なら一度は経験したことがあるであろう、「声をかけてくるあいつら」をやっていました。
実際にやってみて、やり方自体は一通り理解しました。
自分は主に渋谷ハチ公前や新宿駅前で声をかけることが多かったです。
まぁ豆腐メンタルだったのであまり外に出てはいなかった&冬でクソ寒い&クラブ行き過ぎて死んでいることが多かったですが。
道に出ても声掛けのやり方が良くなくて逃げられたり、邪魔と言われたり、死ねと言われたり、キャッチと喧嘩になったり。
色々な心の折られ方を経験しました。
カイロが欲しくなる冬の0時の新宿駅前で、10人ほどに声をかけていたところ、量産型ぴえんを発見。
「おはよ、こんな夜遅くの渋谷でお出かけの予定?」
と声をかけると、ここは渋谷じゃなくて新宿ですよ、と爆笑。
これはナチュラルに間違えました。
話を聞くと仕事終わりで帰宅途中らしく、家に帰ってAPEXをやるとのことでした。
大体この時間にぴえんファッションで歌舞伎町あたりを歩いているのはガルバコンカフェ風俗パパ活のいずれかです。
ホストはそこまで意識していませんでしたが、ホストっぽい外見だったので新米ホストなんだという体で話していました。
5分ほど歩きながらゲームの話題で盛り上がった後、区役所通りに差し掛かりました。
その子は区役所通りを直進しようとしていましたが、信号が変わる直後に手をつないで
「APEXが最強になれる道場知ってるからおいで」
と言って快活clubに誘導して、あとはお察しの通りです。顔刺し、ホスト刺し。
そういえば出会って5分で合体なんてAVありましたっけ。
ちなみに別れ際にLINEを交換しましたが秒でブロックされていました、虚無。
この画面も見慣れたものですけどね。
アプリ
マッチングアプリは好調でした。
以前はどのアプリでも全然マッチすることがなく、0いいね0マッチなんてザラでした。
しかし写真やプロフィールを改善した結果、Tinderが99+、Pairsのいいね数が500+でカンストしたりしました。
最初はほぼ全員にきちんと返信していましたが、次第に選ぶ側になっていくのを感じていました。
マッチングアプリは適切な写真、プロフィールを設定し、適切な戦略で運用すればいいね数はすぐに増えます。
そのため数を撃てる環境を作ることができ、女慣れをするためにとても有用でした。
おそらくほとんどの人は、リアルコミュニティで気になる人がいるけども、100%負け戦になるとわかっている状態だと思います。
そしてヒエラルキー上位のモテる陽キャイケメンに対して辛酸をなめさせられていると思います。
非モテ男には、女の子をデートに誘い、OKをもらうことですら高難度なのです。
加えてリアルコミュニティで場数を積むことは、社会的魅力の損耗に直結するという大きなデメリットを抱えています。
それに対してマッチングアプリは、リアルコミュニティでの評判をあまり気にすることなく効率的に女性経験を積むことができます。
ここでいう女性経験とは、実際にデートに行き女の子を魅了するという経験です。
マッチングアプリで勝てるようになれば、あとは入りの部分が違うだけなので、リアルコミュニティでも戦うのは簡単になります。
クラブ
クラブにも週3とか週4で行きまくっていました。
主に行っていたのはATOM TokyoとWARPです。
都内でも有数のチャラ箱ですね。
コロナ禍にも関わらず気にせず行きまくってたので、多方面から顰蹙を買っていたとおもいます。
あの時はごめんなさい、こっちもタイムリミットがあるので必死でした。
最初こそ女慣れしていないので距離感がおかしかったりガン無視されたりしていました。
あのあたりの女の子は、モテなさそうな男を人間と思っていないので平気でゴミみたいな扱いをしてきます。
治安はTinder並みですね。
あと大学の話になったときに、名大の話をしても反応がさっぱりなのに、明大の話をしたら頭いいんだねというシーンがよくありました。
なぜ俺がこんなバカ女共にゴミ扱いをされなければならないのだろうか。
こいつらは実に勿体ない、人の魅力を適切に評価できないとは悲しいものだな、と少し哀れみました。
ごめんなさい嘘つきました。くたばれクソ女としか思ってないです。
ナンパの流れは基本的には相手の手を軽く2回たたいて「おはよ」から会話を始めます。
まああとはノリと打診です。
クラブとかアプリで会う子ってほとんど印象に残らないんですね。
印象に残っているのはTinderで知り合ったFカップ慶應女子とATOMに行き、その子が連れてきた芸人の男と正月に3Pした後、家族と初詣行ったことぐらいですね。
まぁそんなこんなで最終的には行けば7割方なんとかなる、渋い箱でもそれなりに勝てる手ごたえにはなりました。
割と棒立ちしがちで仲間のヘルプに入る形が多かったですが。
1週間ホスト
ただ貯金を食いつぶしているだけの暮らしだったので、さすがにそろそろ投資分を回収したいという思いもあってヒモでもやってみるかーと思ったり、ホストの体験入店に行ったりしました。
そんな2月の終わりに、悪友から体験ツアーで10万円もらえるホスクラがあるらしいとの話を聞き、さっそく応募することにしました。
ホスト自体はかねてから興味があったのと、一応元ホストという肩書も面白そうだと思っていました。
ただ向こうもさすがに冷やかしに10万円を渡したくはないようで、説明会後の面接でツアーに参加させるかを決めていたようです。
自分は最初にYさんというホストと面接をすることになりました。
Yさんには正直に、大学に編入する可能性が非常に高いと伝えたうえで、歌舞伎町のホストに興味を持っていることを伝えました。
結果的にそれでも良い、君たちは間違いなく売れるから、むしろツアーに参加せずにこの店で働いてほしいと誘われました。
ただそれではツアーに参加しないことになって10万円を受け取れないかもと思い、一旦他の店も見たいと伝えました。
一応了承されたみたいで、次回日程を決め、説明会の参加料で1万円をもらいました。
これ以降はYさんが面倒を見てくれるような形になりました。
2回目では、なぜか前回と同じお店に呼び出され、Yさんから「キャバ行ったことある?」と聞かれました。
あるにせよないにせよ、キャバには行くつもりだったみたいで、自分と悪友とYさんで近くの高級キャバに向かうことになりました。
自分はキャバには行ったことがないので結構緊張して、非モテムーブをかましていました。
そのキャバで自分と悪友はYさんから
「今ここで入ってくれたら10万円あげるよ、お前らは絶対売れるからウチで働いてほしい」
と言われました。
ここで頭に引っかかっていたのは、仮に入ったとしてもほぼ確定的に名大に行くことでした。
担当ホストのYさんは人柄が良く人望も厚い方で、この人についていったら月100万まで稼げるだろうなと思いました。
もしかしたら、ホストをやってみたら、自分の気が変わるかもしれないと思い3月いっぱいまでなら可能だろうという話をしました。
それでもよいということだったので、自分はその条件を飲みました。
10万円のうち累計7万円を受け取ると、ホストとしての登録を済ませ、テーブルマナーを先輩ホストから教わりました。
それ以降は習うより慣れろとのことで、いろんなところにヘルプに入ったり、時に新規のお客さんについたりしました。
優しいお客さんもいれば、自分と話題が合わず気まずくなってしまうお客さんもいました。
ヘルプで入ったときも、担当ホストとの関係性が構築されていないために、無言で不甲斐ない思いをしていた時もありました。
その中でも最も致命的だったのは、このお店がヘラヘラ三銃士とコラボしており、それを見てきてくれている人が多いことでした。
https://mdpr.jp/interview/1984549
自分はヘラヘラ三銃士を見たことがなかったし、共通の話題としてよく出るYoutuberについてもほぼ知りませんでした。
家に帰った後はヘラヘラ三銃士の動画や、他のホストがどんな接客をしているのか、時間をどのように使っているのかをひたすら調べました。
幸か不幸かお客さんはほぼついておらず、新規のお客さんとLINEを交換しても即レスが負担にならない程度の人数だったので時間に余裕はありました。
その甲斐あってか、入店して3日で送り指名を2人からもらうことができました。
もっとも、これはビギナーズラックのようなもので、以降は送り指名すら取れませんでしたが。
結局金銭的なスポンサーである親とも一悶着あって、ホストは1週間でやめる形となりました。
ホストやヒモについて偏見ではなく事実を知ることができたのは良い体験であったし、そして自分がホストやヒモに向いていなさすぎる性格なこともよくわかりました。
自分は、ホストやヒモは価値提供の対価を受け取っているに過ぎず相手も自分もWIN-WINである、という考えを取り込むことができませんでした。
内なる声の
「それはほとんどの場合、円環の上を滑り落ちているだけで、人生が好転しない退廃的な関係なのではないか」
「WIN-WINであるならば、ホストと女の子の生み出した価値と取り分は、双方にとって数十年レベルで継続的に広がり続けるのか」
という問いを説き伏せられませんでした。
外見だけで言えば、夜職をやるに耐えるものだったのかもしれませんが、性格という器が耐えられないようでした。
こうして自分はヒモやホストから手を引くことにしました。
ここから先は書きかけです。あとで書く。
入学
ナンパやホストをやらなくなった後も、東京でしかできないことを模索していました。
この期間は2週間程度しかなかったのでできたことはたかが知れているのですが、基本的には色々な人に会うということをしていました。
当時はとにかく金がなかったので、自分の体験記でも売るか~などと思ってヒアリングを行っていました。
結局お金につながるようなものはありませんでしたが、結果的には友達が増えたので色々な人に会うというのは良いなと思いました。
ぴよちゃん(仮名)と付き合う
名大の入学式から数日後。
適当にタップルをスワイプしていたところ、1人の女の子とマッチしました。
初日こそ挨拶だけだったものの、翌日の昼はなぜかトークしかしていないにも関わらず、異常に食いつきが高い状態でした。
当初は美人局を疑ったものの、それならそれで面白いと思ったので乗ってみることにしました。
これが今の彼女のぴよちゃん(仮名)との最初の出会いでした。
カカオトークを交換し、軽く電話をした後近場のカフェで合流。
その後は買ったけどほぼ使っていなかったトランポリンで跳ねたり、カシスソーダを飲みながらスマブラをやったりして解散しました。
それ以来、結構な頻度で会うようになり、シーシャやダーツバーに行ったり、こどもの日にガラガラのレゴランドに遊びに行ったりしていました。
昔も今も、自分が彼女を作る際にもっとも重視していた点は一つだけで「結婚を考えられるかどうか」でした。
1か月もすれば大体の人となりや性格がわかってくるもので、この子となら結婚を考えられると感じました。
書き方が上から目線だったりただの惚気だったりでシンプルに俺の立ち位置がキモいですが、
- 気立てがよい
- 男遊びをしていない
- 自分のノリや思い付きに付き合ってくれる
- 勉強は嫌っているが、自分よりも地の能力値は高いんだなあと思う瞬間がある
- 何より、歪んだりスレたりしておらず明るくて性格が良い
などなど。
ただの惚気ですねすみません。
そんなこんなで知り合って1か月半が経った頃。
お互い東京に行く日が被っている日があったので一緒にお台場を観光することにしました。
この時点でもう既に、彼氏と彼女というような関係性ではありました。
しかしまだ告白はしておらずなぁなぁな関係性のままでした。
自分はケジメをつけるため、このデートの際にきちんと告白することにしました。
昼には新型コロナウイルスの流行によりシャッター街と化したお台場を歩き回り、そして適度な疲労感のある夕方。
大観覧車の中で夕暮れに映えるお台場の景色を背に、自分とぴよちゃんは正式に付き合うことになりました。
とりぴよちゃんねる始動
付き合い始めてから1週間。
夜に電話をしていたある日、結婚の話題になりました。
自分は付き合う前から、自分は結婚を考えられる子としか付き合わない。
そして結婚を考えられない相手と付き合うのは無意味だと思っていることを伝えてきました。
それに加えて結婚は早ければ早いほど良いと思っていること、学生結婚が現時点で最善だと思っていることも話しました。
自分が結婚は早いほどいいと思う大まかな理由は3つあり
- さっさと配偶者獲得競争を結婚という形で終わらせることで、ナンパや合コンなどの非生産的な時間を浮かせ、本当に大事なことに投下できる
- 早ければ早いほど子供を産み育てられる期間が長くとれる
- 親が健康なので、育児への助言助力が期待できる
で、これらの考えをもとにお互いの意見のすり合わせをしました。
そして浮かび上がってきた問題はただ1つ
金が足りない
ということでした。
では何にお金がかかるのか?
- 結婚式
- 指輪
- 育児の初期費用
- 学費・生活費など
があり、現状我々は両親の援助を受けながら大学に通っています。
そんな中で学生結婚を達成するためには、こうした金銭的障害を乗り越え、親から金銭的に独立する必要がありました。
また結婚の障害として親の反対というものがありますが、別に究極的には金さえあれば勝手に自立してどうにかするという強硬手段も取ることができます(本当に最後の手段ですが)。
とにかく、学生結婚をするためにはお金という障害が重くのしかかってくるのです。
でも解決策はシンプル、お金を稼げばよいのです。
まず結婚・子育てにかかわる費用を大雑把に計算したところ、1千万円近くが必要なことがわかりました。
目標金額を立てた次は、どのように稼ぐかという手段を決める必要があります。
この、お金を稼ぐ方法について色々な策を検討したところ、
- 2人でお金を稼ぐことができる
- カップルの意見をすり合わせる必要があるため、参入障壁が高い
- 広報媒体として役に立つ
といった理由から「カップル×お金稼ぎ系Youtuber」というポジショニングでとりぴよちゃんねるの開設が決まりました。
6月2日にジンバルや三脚などの撮影機材を購入し、6月の1か月間を準備期間、7月1日から始動させるという予定を立てました。
7月のチャンネル公開と安定的な動画アップロードを目指して企画の立て方や事前のプロットの作り方を勉強したり、セミナーに参加したりしていました。
またこのタイミングでナンパやモテへの執着がなくなったので、6月半ばには外見改善のためにやってきたことの記事を書きました。
ちなみにほぼ売れていないので、続編のアプリ攻略記事を書く気が起きていません。
1本目の動画公開
内容は要するに「キャッシュ1000万円を作って学生結婚をするまでの過程と、せどりやプログラミングなどで稼ぐ過程を発信する」というものです。
出オチ&所信表明と自己紹介なので面白い動画ではないのですが、とりあえず1本目の動画を上げました。(今は非公開)
クオリティはアップロードしながら高めていくとして、とにかく公開することと、最低限の編集スキルを身に着けることを最優先にしました。
現実性という面で方々から突っ込みが多数ありましたが、自分としては達成の如何にかかわらず、まず目標を立てて成功するまでやれば良いというマインドなので無問題です。
完遂して体裁を保つことへの執着を捨ててしまえば、成功か失敗かという2値的で近視眼的なとらえ方を放棄することができます。
もっとも、すべての目標を達成することに執着心を持つのは悪くないですが、その目標必達のために幸福を犠牲にしては本末転倒です。
執着を捨てることによって、どの部分がどの程度達成できたか?という視点で、本質を捉えつつ幸福度の高い意思決定ができるようになります。
定量的で客観的に測定可能な目標を立てることの真の効用とは2つ。
- 目指すべき道しるべを設定することで、その達成に役立つ情報の感度が上がること
- 目標達成までの進捗率がどの程度かを知ることができること
そのため「無理だろ」とか「さすがに厳しくない?」というコメントを貰っても、すべての目標を達成できなくても、心が乱され短絡的な意思決定をすることはないのです。
もっとも最初に外すべき執着は時間です。
目標では期限を設定していますが、それは随時修正されています。
随時修正するなら無意味では?という考えもありますが、そうではないのです。
いつまでにこの目標を達成することは不可能だが、この程度は達成することができる。
だから目標と期限を修正して頑張ろうという認知を作り出すのです。
悠長に見えますが、人生余裕がないとしんどいですし、幸福度を下げることはもっとも避けたい。
自分自身、そんな大きな目標をすぐに達成できるほど能力が高いわけでもキャパシティが大きいわけでもないです。
自分の成功パターンが「目標を立て戦略を作り、多くの金と時間を投入し、あらゆる合法的な手段を模索して、成功するまでやり続ける」であるから、その通りにしているわけです。
その背景には「戦略が正しく機能するならば、あとやることは兵站を整え成功するまでリソースを投下するだけだから、最後には必ず成功する」という脳筋マインドがあるわけですね。
キャッシュを1000万円作るための計画
まず現段階で実現可能なキャッシュ獲得手段を洗い出すところからスタートしました。
ゼロベースでざっと出てきたものは、合法からグレーなものを含めて
- プログラミングで何か作る
- モテ系のコンサル
- 普通にアルバイト
- せどり
- 仮想通貨や金融投資・投機
- ホスト
- ブログ×SNS
- 編入系のコンサル
- Youtuber
- 連鎖取引販売
- エロサイト運営
- トレード配信
という感じでした。
その中から「真っ当な度合」「期待できる獲得額」「自分の現時点での能力値とキャパシティ」「実現可能性」
などの軸で選別したところ
- プログラミングで起業して事業売却を目指しつつ(本命)、開発とビジネスの話が通じるフリーランスのフルスタックエンジニアとして目先のキャッシュを稼ぐ。
- ぴよちゃんにも協力してもらってせどりの可能性を模索する。
- 時間はかかるが使い勝手の良い広報媒体として、低頻度でも良いので自分たちも楽しみながら&思い出作りも兼ねてYoutubeチャンネルを更新し続ける。
という戦略が立ちました。
戦略の第一歩
7月後半に、NPO関係で1年ほど関わりのある行政書士の方と名古屋で飲む機会がありました。
その際の近況報告のひとつで、最近こんな企画と戦略でエンジニア兼お金稼ぎ系カップル大学生Youtuberをやってるんですよ~みたいな話をしていました。
するとその方がこんなサイトを作りたいんだよねーと切り出して来られました。
そこでググりながら検討し、作れます!と伝えると、じゃあお金払うから作ってよ、ということで1件目のお仕事の受注が決まりました。
もっともこのタイミングでは口約束のようなものだったので、8月半ばに東京に行った際に詳細な見積りを行い書面で正式に発注していただきました。
8月に初めて独力(といっても知人友人の案件ですが)で営業をし、自分で自分のスキルに値段をつけて販売し、自分のスキルを使って製作し、お金を受け取ることができたのです。
受注をいただいた際には(荒い金遣いのせいでカードの返済が怪しかったこともあって)脳汁ドバドバでした。
この行政書士の方には継続して受注いただいていており、2つ目3つ目のサイトをこれから作っていくという段階にあります。
お金もさることながらですが、何より実績のない中で発注していただき、こうした経験を積めたのは自分の中で非常に価値のある体験になりました。
単位が足りないから起業する
8月上旬。
期末課題や試験に追われながら、私はいま持っている単位数と進級に必要な単位数を緻密に計算していました。
どうして緻密に計算をしていたのか?
それは春前期の履修を適当に組みすぎたせいで、このままだと単位が足りずに留年してしまうという状況にあったからです。
留年を回避するためにさまざまなパターンの時間割を試しましたが、どう頑張ってフル単しても、専門科目が1単位だけ足りないことは変わりませんでした。
春後期には1時間の間に授業を複数とるという多重履修をしていましたが、富士山登頂時に電話がかかってきて「ダメです」と言われました。無念。
これ以上卒業を遅らせるのは避けたかったので、単位認定ルートを模索することにしました。
そこで一つの光明を発見しました。
名大情報学部にはPBL1, 2, 3というグループワーク型の専門科目が3種類あります。
これらの科目は、特定の条件を満たすインターンに行けば2単位を認定してくれるというものでした。
https://keiji.i.nagoya-u.ac.jp/student_gakugai/?n=307
その特定の条件とは
- 実労働時間80時間
- 労働の対価としての報酬(交通費は除く。)が支払われない
というものでした。
80時間というと1日8時間働いても10日かかる計算です。
しかも労働の対価としての報酬が払われなくて、授業と並行して参加できる都合の良い時間にインターンをやってくれる必要があります。
当然そんなプログラムはないのですが、この時あるアイデアが思いつきました。
自分か彼女の名義で会社を立てて、給与を成果報酬(実質0円)で雇って、自分の肩書をインターン生にすればいいんじゃね?
ただ法人成りのメリットは捨てたくない…そして登記するにしても10万円くらいかかる…
ということで、個人事業主として開業届を出すことにしました。
このアイデアを思い至った瞬間、さっそく教務に電話をかけました。
もちろんこんなアイデアはすぐに伝えても一蹴されるのが関の山です。
アイデアの核心である「自分の会社でインターン」は伝えず、まずは「インターン先が個人事業主か法人かの指定はあるか?」だけを聞きました。
これで法人のみだと無意味なので。
回答は「その点は気にしていない」でした。
この回答を貰った後すぐに開業届を作成し、もっとも近くにあった税務署に開業届を提出しました。
いまは開業って一瞬で終わるんですね、書類渡しておしまいでした。
サンキューfreee
屋号はTPC。
とりぴよちゃんねるから安直に取っています。
ちなみに留年を回避することはできず、2留が確定しました。
しかし「単位認定のために起業、自分の会社でインターンして単位をもらう」なんて実現したら面白いので、現在進行形でこの単位認定プロジェクトは進んでいます。
事務室のPBL担当の方と相談しつつ、2022年の2月上旬に要望書を提出しました。
事業スタート
8月半ば、単位認定のために起業したのですが、当然事業はきちんとやります。
現状キャッシュを作れそうなものは
- 事業売却
- 受託開発
の2つだったので、登記後は事業売却につながるような事業を興すことも並行して行いました。
といっても登記時点で既に事業のための開発は始めていました。
この時作り始めたものが「WP Monetize(当時はWP EasyPaywall)」でした。
これは1年ほど前から脳内にはあったアイデアで、WordPress上で安価な手数料でペイウォール機能を実現するというものです。
期末試験や課題をやりながら(というか一部後回しにしたり放置したりしながら)PHPを勉強しプラグインを製作しました。
結局いざやってみたら(クッソ面倒で大変ではあったものの)8月後半にさしかかるくらいでどうにか使える程度のものは作ることができました。
試験的に自分のサイトに統合して使ってみたところ、問題なく使うことができました。
自分のブログでも有料記事を売っているのですが、このプラグインをフル活用しています。
残りは決済周りを整備すればお金取れるかも…!なんて当時は思っていましたが、結局正式リリースは12月20日と大幅に遅れることになります…。
色々ASC(下記)とかあって、11月初頭くらいにPRE Station AIに訪問してマネージャーの篠原さんに事業アイデアを話したらボコられました。
いいボコられ方で色々突っ込まれたのですが、とりあえず仮説検証ロクにやってないのは怠慢だよなということでユーザーインタビューに乗りだしました。
そんなこんなで12月後半にプロダクトのVer.0.1が完成しました。
創業話は長いので気が向いたら書きます。
あいちスタートアップキャンプ2021(ASC2021)参加
プログラミングの休憩がてらinstagramを眺めていると、起業セミナーの広告が出てきました。
目に留まったので調べてみると、愛知県のやっている県民向けの事業創造セミナーで、受講料は無料。
この頃はどのように集客すれば良いかといったことで困っており、面白い出会いも期待して参加することにしました。
参加にあたって選考があったようですが無事突破し、全5回のセミナーへの参加が決定しました。
GPLライセンスの壁
WordPressのプラグインはプラグインストア的なところに公開する場合、すべてのソースコードを開示する必要があります。
そのため、安直に実装してリリースしたところで、課金の処理を迂回される可能性があるわけです。
多くのプラグインは買い切り型にするか、開発コストをかけて価値の提供を別に独自に持っているサーバーで行うという方法をとっています。
自分は売り方に制約がかかるのが嫌だったので、後者の開発コストを追加投資する方法を選択しました。
このサーバーですが、プログラミング1という大学の授業の最終課題で提出したプログラムを活用しています。
サンキュープログラミング1
事業アイデアのブラッシュアップ
2022年の元旦。
2021年はあまり本を読んでいなかったので、その反動からかめっちゃ本を買い込みました。
しかし以前の漫然な読書とは違い、今回は事業を成長させるという明確な目的意識のもと本を選定していました。
そして本を読んだら、その知識をすぐに活用することにしていました。
それにより事業戦略により確信を持てるようになりましたが、これは社外秘なのでうまくいったら公開します。
うまくいかなかったら恥ずかしいので何も言いません。
とりぴよちゃんねるの企画
とりぴよちゃんねるの様子について。
富士山登山&富士急
受注をいただいた際に振り込まれたお金は基本的に再投資に回し、死に金にしないことをモットーにしています。
今回受注をして支払われたお金も、このモットーに従って再投資をすることにしました。
使い道はせっかく夏休みで時間が取れるし、人生でやりたいことリストに入っていてYoutubeの素材にもなりそうだった富士山登山に決定。
ボチボチ下調べをすると、ご来光が綺麗ということなので、ご来光を見ることを起点にルートと宿をとることにしました。
またスケジュール的に午後が暇になりそうだったので、富士急に立ち寄ることにしました。
ヘリコプターデート&22歳になる
やりたいことリストにあって、すぐ達成できそうなものに「ヘリに乗る」というものがありました。
そこで受託開発でいただいたお金もあったので、電話でヘリコプター遊覧とか面白そうじゃない?みたいな話をし、急遽決定。
Air Xというサービスを使って予約を取りました。
せっかくなので東京観光に行くプランを立て、
9/20:東京で合流&ヘリに乗る
9/21:(鳥貴士22歳の誕生日):制服ディズニー
9/22:新宿のカフェに行ってバスで帰る
という流れで行くことにしました。
Wakatte TV登場でチャンネル登録者数急上昇
9月22日には宿泊していたホテルを後にし、新宿発のバスに乗るべく新宿に向かいました。
夕方発のバスで多少時間の余裕があったため、君の名はの舞台になったカフェに行くことにしました。
中央線から降りて新宿駅東南口からエスカレーターを降りた矢先、どこかで見覚えのあるデカいシルエットの赤服が目に入りました。
ちょくちょく見ていた教育系(というか学歴煽り系?)Youtuber「Wakatte TV」のふーみんでした。
感激して彼女に「ちょっと話してくるわww」といい話しかけに行くと、話しかけてきた人の学歴比較という企画をやっているとのことでした。
動画ではカットされている箇所でいろいろ辛辣に煽られましたが、撮影以外の時間は物腰の柔らかいお二人でした。
この時にとりぴよちゃんねるの方もご紹介いただいて、おかげさまでチャンネル登録者数が46人から680人程までに急上昇しました。
先日名古屋大学での撮影をしていたときは、その話を聞いて一礼入れておこうと思って急行したのですが、もう地下鉄で帰られるところだったので残念でした。
ここでご紹介いただいた機会をチャンスに、頑張って動画を企画・制作したいと思っています。
と言いつつ動画出す出す詐欺している…すみません。
ちなみに親に撮影機材への投資とか言って、携帯代金を下げることを条件に、iPhone 13 Pro Maxにスマホの機種変更をしました。
画質めっちゃいいのに全然活用できてない…。
ちなみに2022年2月なかばあたりで「令和の虎」の賭けポーカー事件の影響でWakatte TVが再生されるようになったのか、とりぴよちゃんねるのチャンネル登録者数が150人ほど増えました。
ただの桶屋が儲かった話です(儲かってない)。
雑誌のスナップ依頼
髪型がクソダサいので黒歴史です。
わざわざコート新調したのに…!
今度は髪型ちゃんとセットするので、もう1回チャンスください…!
留年確定
2022年3月初頭。
まぁ予想通り留年が確定しました。
トータル41単位くらい取ったのかな。
色々手広げすぎてGPAがご臨終になりました。
ワーケーションと追加受注
知り合いの行政書士の方から追加で発注をいただきました。
これから作ります。
PC買い替え
大阪梅田駅のロッカーにPCを忘れたことがきっかけ。
もうこのパソコン遅いしイライラするし買い替えたいなーと思うようになって、自分へのクリスマスプレゼント兼事業投資とか言ってMac Book Proを買いました。
学割効かせてお値段46万円。
投資回収しなきゃ…
東京都オープンデータハッカソン
12月後半のイベントで、Code for OTAというNPOの団体名で出した。
なんかファイナリストに選出されたけど決勝プレゼンでは優勝できず。
色々思うところはあるのでまた追記します。
司法予備試験への興味
法務をDIYしたい、弁護士の友人がいないなどの理由で、じゃあ自分がやったるわということで受験を決定
まぁそんなすぐに受かるとは思っていないですし、人生で一度も受からないかもしれないけどとりあえず受けてみることに。
2022年に受けたろ!と思っていたら出願期間を勘違いしていて出せず。
2023年に回すことにした。
ちなみに2022年の秋くらいの中小企業診断士は出そうと思っている。
勉強すること法務と会計くらいと記述くらいなのでワンチャンあるのでは?という舐め腐ったノリです。
Botter本買ってモチベ上がる
こんな本を買って
モチベ爆上がりした。
機械学習系の本2冊買った。
だが事業投資成功させてからだなーという結論に至った。
今後
2022年内の結婚に向けて、今年は事業と最低限の単位回収を頑張ります。
低次の欲求からの解脱を目標に4年間頑張ったけど、色々手出しすぎて&能力が低くて4年間じゃ無理そうです。
2留が確定したので残り2年の延長戦でどうにか目標達成を図ります。
低次の欲求から解放されたらその次何したいの?みたいな話も色々語れることが多いのですが、やる気が出たら書きます。
気になる人はDMしてください。直接会って話しましょう。
会うのは誰でもウェルカムです。
ということでまた気が向いたら&進捗を産んだら色々追記します。